ある夏の日の、夕方でした。通報されたのは、同居している息子さんです。
「父の様子が、二、三日前からおかしいんです。今日はほとんど食べなくて。……熱は、ないんですけど」
電話口の声には、遠慮がありました。熱がない。咳もしていない。倒れてもいない。救急車を呼ぶ理由を、うまく説明できない——通報者の方が、そういう申し訳なさを抱えておられるのは、現場ではよくあることです。
「今日は、あまり食べなかった」——それが最初のサインだったことが、後からわかることがあります(写真はイメージです)
けれど、私たちはその一言で急ぎました。
高齢の方の「熱も咳もない」は、肺炎を否定する材料にはならないからです。
この記事では、実際の事案をもとに、むせていなくても誤嚥は起きているという話と、家族が「食べない・元気がない」以外のどこを見れば判断できるのかをお伝えします。
事案の経過——夏の夕方、80代男性
時刻:夏の夕方 場所:自宅 通報者:同居のご家族(息子さん) 主訴:二、三日前から元気がない。今日は食事をほとんど摂らない。呼びかけへの返事がぼんやりしている
ご本人は、居間の椅子に座っておられました。数年前に脳梗塞をされていて、体の片側に軽い動かしにくさが残っている——そう息子さんが教えてくださいました。
声をかけると、返事はあります。ただ、返ってくるまでに間があり、話の内容も少しかみ合いません。息子さんは「昨日まではもっとはっきりしていた」とおっしゃいました。
体温は、微熱と言える程度。高熱ではありません。咳は、私たちが接触していたあいだ、一度も出ませんでした。
けれど、私たちが気になったのは別のところです。
- 呼吸が、浅くて速い
- のどの奥から、ゴロゴロという音がしている
- 血液中の酸素の値(SpO2)が、明らかに低い
- 顔色が、息子さんから見て「いつもより悪い」
そして、聴取のなかで息子さんがおっしゃった一言が、この事案でいちばん大事な情報でした。
「食事中、一度もむせていないんです。だから、のどに詰まったわけじゃないと思うんですが」
むせなかったことは、誤嚥がなかったことの証明にはなりません(写真はイメージです)
むせていないことは、誤嚥していないことの証明にはなりません。 むしろ、誤嚥性肺炎の多くは「むせない誤嚥」から起きている——これは、日本呼吸器学会のガイドラインにはっきり書かれていることです。
搬送先の病院では、誤嚥性肺炎を疑って検査が進められました。お薬手帳を息子さんが持ってきてくださっていたので、既往と服薬の情報はそのまま病院にお渡しできました。
「むせない誤嚥」がある——顕性誤嚥と不顕性誤嚥
まず、言葉の整理からです。
日本呼吸器学会「成人肺炎診療ガイドライン2024」は、誤嚥を2つに分けています。
誤嚥は,顕性誤嚥と不顕性誤嚥に分類される。前者は飲食の際などに明らかにむせこむ誤嚥であり,後者は咳嗽反射の著しい低下によってむせこみがみられない誤嚥である。誤嚥性肺炎の多くは後者によって発症するため,診断が困難なことも少なくない。
(日本呼吸器学会「成人肺炎診療ガイドライン2024」SCOPE 誤嚥性肺炎)
ここで押さえていただきたいのは、次の一点だけです。
「むせる誤嚥」と「むせない誤嚥」があり、誤嚥性肺炎の多くは後者から起きている。
むせるというのは、気管に入りかけたものを咳で押し返す反応です。つまり、むせているうちは、体の防御が働いているということでもあります。
問題は、その咳の反射そのものが弱くなったときです。日本呼吸器学会の一般向けページ「誤嚥性肺炎」には、こう書かれています。
高齢者や寝たきり患者では咳反射が弱くなり嚥下機能が低下します。その結果、口腔内の細菌が気管から肺へと吸引され、肺炎を発症します。
(日本呼吸器学会「呼吸器の病気 A-12 誤嚥性肺炎」)
咳の反射が弱くなると、誤嚥しても、むせません。むせないから安全なのではなく、むせられないから気づかれない——順番が逆になっているのです。
誤嚥は、食事の時間だけに起きるものではありません(写真はイメージです)
さらに、ガイドラインには見落とされやすい記述があります。
嚥下機能は同じ宿主においても日内変動するものであり,日中に異常がみられなくとも睡眠中に低下することがあるためである。
(日本呼吸器学会「成人肺炎診療ガイドライン2024」SCOPE 誤嚥性肺炎)
日中の食事のときに問題がなかったからといって、24時間問題がなかったことにはならない、ということです。飲み込む力は一日のなかで変動し、眠っているあいだに落ちることがある。だから「食事はちゃんと食べられていました」という家族の観察は、正確ではあっても、誤嚥を否定する材料にはなりません。
熱も咳も出ないことがある——これが誤嚥性肺炎の特徴です
もうひとつ、家族が知っておく価値のある事実があります。
日本呼吸器学会の一般向けページ「誤嚥性肺炎」の「症状」の項に、こう書かれています。
発熱、咳、膿のような痰が肺炎の典型的な症状です。しかしこれらの症状がなく、なんとなく元気がない、食欲がない、のどがゴロゴロとなる、などの非特異的な症状のみがみられることが多いのが誤嚥性肺炎の特徴です。
(日本呼吸器学会「呼吸器の病気 A-12 誤嚥性肺炎」)
これは、家庭で判断するうえでとても重要な記述です。学会自身が、典型的な症状が出ないことのほうが多いと書いているのですから。
ここから、家族が見るべきものが決まります。
| 一般的に「肺炎のサイン」と思われているもの | 誤嚥性肺炎で実際によく見られるもの |
|---|---|
| 高い熱が出る | 熱が出ないことがある |
| 咳が続く | 咳が出ないことがある |
| 痰がからむ | のどがゴロゴロと鳴る |
| 息苦しさを訴える | なんとなく元気がない/食欲がない |
右の列は、どれも「病気らしくない」症状です。だから家族は「夏バテかな」「歳のせいかな」と考えます。それは、情報として自然な反応です。責められることではありません。
ただ、その解釈が当たっているかどうかは、家庭では確かめようがない。だから私たちは、解釈ではなく、変化そのものを見てくださいとお伝えしています。
「いつもは飲むお茶を、今日は飲まない」——比べる相手は、教科書ではなくご本人の普段です(写真はイメージです)
日本呼吸器学会は、誤嚥性肺炎が起こりやすい人についても書いています。
嚥下機能の低下した高齢者、脳梗塞後遺症やパーキンソン病などの神経疾患や寝たきりの患者に多く発生します。
(日本呼吸器学会「呼吸器の病気 A-12 誤嚥性肺炎」)
脳梗塞のあと、パーキンソン病、寝たきりに近い状態——これらに当てはまるご家族がいる場合、「熱がないから肺炎ではない」という判断は、いっそう危うくなります。
なお、脳卒中の後遺症があるご家族の「いつもと違う」を家族が拾った事案は、別記事で書きました。
数字で見る誤嚥性肺炎——年間6万3667人
「そんなに多い話なのか」と思われるかもしれません。国の統計で確認できます。
厚生労働省「令和6年(2024)人口動態統計(確定数)」の死因順位別死亡数によると、令和6年に亡くなった方は全体で160万5378人。そのうち——
| 順位 | 死因 | 死亡数 | 全死亡に占める割合 |
|---|---|---|---|
| 第4位 | 脳血管疾患 | 10万2821人 | 6.4% |
| 第5位 | 肺炎 | 8万176人 | 5.0% |
| 第6位 | 誤嚥性肺炎 | 6万3667人 | 4.0% |
| 第7位 | 不慮の事故 | 4万5743人 | 2.8% |
誤嚥性肺炎は、死因の第6位です。 そして、交通事故や転落・溺水などをすべて含んだ「不慮の事故」(4万5743人)よりも多い。
さらに、令和5年の誤嚥性肺炎の死亡数は6万190人で、令和6年はそこから3477人増えています(増減率3.2%)。減っている死因ではない、ということです。
統計の数字の一つひとつに、家庭の食卓があります(写真はイメージです)
なお、この記事では「誤嚥性肺炎で救急搬送された人が何人いるか」という数字は書きません。総務省消防庁の統計には、誤嚥性肺炎を単独で集計した項目がないためです。あるはずの数字を推測で書くことはしない——これは、この連載で守っているルールです。
家庭で起きる救急事案の全体像については、消防庁の統計をまとめた記事があります。
「詰まる誤嚥」と「詰まらない誤嚥」は、まったく別の話です
ここで、混同されやすい2つを分けておきます。
① のどに詰まる(気道異物・窒息) 食べ物が気道をふさいで、その場で呼吸ができなくなる。分単位で命に関わります。背中を叩く、腹部を突き上げるといった応急手当が必要な場面です。
② 肺に入る(誤嚥性肺炎) 食べ物や唾液が、詰まりはせずに気管の奥へ入り込む。その場では何も起きません。数日かけて肺炎になります。応急手当ではどうにもならず、必要なのは受診です。
同じ「誤嚥」という言葉を使いますが、時間の単位も、家族がすべきことも違います。
この記事は②の話です。①については、別の記事で詳しく書きました。
そして、①と②のどちらでもない、「その場では何も詰まらなかったけれど、数日後に様子がおかしい」——これが、今回の事案でした。
家族が見る3つの変化
現場で私たちが家族から聞き取っているのは、難しい医学的な所見ではありません。次の3つです。
① 食事の量が、いつもと違う
「食欲がない」は、日本呼吸器学会が誤嚥性肺炎の症状として名前を挙げている項目です。一食抜いた、ではなく、二日、三日と続いているかどうかを見てください。
高齢のご家族が食べられなくなり、熱が出ないまま重い状態になっていた事案は、以前にも書きました。
② 話し方・反応が、いつもと違う
「なんとなく元気がない」も、学会が挙げている症状です。呼びかけへの返事が遅い、話がかみ合わない、日中うとうとしている時間が増えた——ご家族だからこそ気づける変化です。
③ のどが、ゴロゴロ鳴っている
「のどがゴロゴロとなる」も、同じく学会が挙げている症状です。痰がからんだような音が、話していないときにも続いているかどうか。
体温計の数字だけを見て安心してしまう——それが、いちばん多い見落としです(写真はイメージです)
この3つは、どれも体温計では測れません。 そして、どれも「ご本人のいつも」を知っている家族にしか判定できないものです。医療者は、初対面の高齢の方を見て「今日は反応が鈍い」とは言えません。比較する相手を持っていないからです。
その意味で、家族の「いつもと違う」は、私たちが最初に受け取る、いちばん精度の高い情報です。
「熱はないんですけど」で始めていただいて構いません。判断するのはこちらの仕事です(写真はイメージです)
飲んでいる薬の情報は、家族が用意できるもののなかで、いちばん医療に近い情報です(写真はイメージです)
学会は「弱く推奨する」と書いています。強くも弱くもせず、そのままお伝えします(写真はイメージです)
「熱はないんですけど」——その電話を、私たちは待っています(写真はイメージです)

