「弟が、朝から起き上がれないんです」
通報してきたのは、同じ市内に住むお兄さんだった。落ち着いた声だったが、最後にこう付け足した。
「……実は、二週間くらい前から、あまり食べていないみたいで」
二週間。その言葉を聞いた時点で、これは「今朝始まった話」ではないと分かった。
現場——部屋は、静かすぎた
到着したのは、集合住宅の一室だった。カーテンは閉まったまま。日中なのに部屋は薄暗く、空気がこもっている。
50代の男性が、布団の上に横になっていた。呼びかけには反応する。目も開ける。だが、返事が短い。「大丈夫です」「平気です」——それだけを繰り返す。
見た瞬間に気になったのは、呼吸だった。
肩が上下している。浅くて、速い。数えると30回/分を超えていた。成人の安静時呼吸数はおおむね12〜20回/分とされるから、明らかに多い。SpO2は88%。額に手を当てると、はっきりと熱い。
唇が乾いていた。口の中も乾いている。頬がこけていて、二週間食べていないという話が、そのまま体に出ていた。
カーテンを閉めた部屋の中で、体は少しずつ悪くなっていた。外からは、何も見えない
お兄さんに既往を聞いた。
「統合失調症で、ずっと精神科に通っていました。……でも、たぶん、ここ何ヶ月かは行っていないと思います」
薬は、と聞くと、居間の机の上を指した。まだ袋に入ったままの薬包が、何列も残っていた。
バイタルが語っていたこと
搬送までのあいだに確認したバイタルサインは、こうだった。
| 項目 | 値 | 目安 |
|---|---|---|
| 意識 | JCS 1(清明とは言えない) | 呼びかけに応じるが反応が鈍い |
| 呼吸数 | 32回/分 | 成人の安静時は約12〜20回/分 |
| SpO2 | 88%(室内気) | 低酸素状態 |
| 脈拍 | 122回/分 | 頻脈 |
| 体温 | 38.9℃ | 発熱 |
| 血圧 | 92/58 mmHg | 低め |
呼吸が速い。酸素が足りない。脈が速い。熱がある。血圧が低い。
このうち3つ以上が同時に揃っているとき、現場は「肺炎かもしれない」ではなく「重い感染症が全身に及んでいるかもしれない」という前提で動く。
搬送先の病院では、肺炎の診断がついた。入院になった。
この方の「二週間」に、何が起きていたのか
お兄さんの話をつなぎ合わせると、経過はこうだった。
- 約3週間前:咳が出ていた。本人は「風邪」と言っていた
- 約2週間前:食欲が落ちた。作った食事に手をつけない日が増えた
- 約1週間前:兄が「病院に行こう」と言ったが、本人は「大丈夫」「行きたくない」と拒否
- 前日:ほとんど布団から出なかった
- 当日朝:起き上がれず、兄が救急要請
どの時点でも、本人は「苦しい」と言っていない。
これは、この事案に限った話ではない。私が現場で繰り返し出会ってきたパターンだ。
精神疾患のある人の身体の病気は、なぜ遅れるのか
まず、統合失調症は決して珍しい病気ではない。国立精神・神経医療研究センターが運営する「こころの情報サイト」(厚生労働省の旧「みんなのメンタルヘルス総合サイト」から移行)は、統合失調症を「100人に1人弱がかかる病気です」と説明し、日本の患者数を約80万人としている。
つまり、どの町にも、どの職場にもいる。決して特別な話ではない。
そのうえで——なぜ体の病気が遅れるのか。ここから先は公的資料に書かれた話ではなく、私が現場で繰り返し見てきたパターンとしてお読みいただきたい。理由は、いくつも重なる。
1. 本人の訴えが少ない 「つらい」「苦しい」という自覚や表現が、病気そのものや薬の影響で乏しくなることがある。痛みや息苦しさを、周りが期待するような形で言葉にしないことがある。
2. 「いつもと違う」の基準が家族にも分かりづらい もともと生活リズムが不規則だったり、食欲に波があったりすると、「今回の食べない」が病気のサインなのか判断がつかない。
3. 受診そのものへの抵抗がある 病院に対して強い不安や拒否感がある場合、体が悪くても「行かない」が選ばれてしまう。
4. 精神科には通っていても、体は診てもらっていない 精神科の通院が続いていても、内科的な診察や検査の機会が少ないことがある。まして、この方のように精神科の通院自体が途切れていれば、体を診てもらう入り口はほとんどなくなる。
「行きたくない」の裏側には、本人にしか分からない理由がある。責める話ではなく、どう届けるかの話だ
服薬が止まると、体まで遠くなる
机の上に残っていた薬包を見たとき、私はこう思った。
薬が止まった瞬間から、この人は医療から切れていたのだと。
精神科の薬は、飲んでいる限り、定期的な受診がセットになる。診察のたびに誰かが本人の顔を見る。少なくとも「最近どうですか」と聞かれる機会がある。
その通院が途切れると、体調の変化を医療者が拾う機会も同時に消える。薬を飲まなくなったこと自体もリスクだが、それ以上に「誰も見ていない期間」が生まれることが怖い。
薬が余り始めたら、それは「体調のサイン」ではなく「医療から離れつつあるサイン」かもしれない
薬について、もう一点だけ。日本呼吸器学会の『成人肺炎診療ガイドライン2024』は、誤嚥性肺炎のリスクとなる嚥下機能低下の原因に、脳血管障害や慢性神経疾患と並んで「鎮静薬、睡眠薬、抗コリン薬など口内乾燥を来す薬剤」を挙げている。治療の項では、口腔内衛生や食事形態の変更とともに「向精神薬……の適正使用も同時に検討する」とも書かれている。
ただし——ここは強調しておきたい。これは「精神科の薬が肺炎を起こす」という話ではない。上のガイドラインも特定の薬を名指しして否定してはいない。そして何より、薬を自己判断でやめることは絶対に避けてほしい。中断は別のリスクを生む。気になることがあれば、やめる前に主治医に相談する——これが原則だ。
家族が気づける「肺炎のサイン」は、咳ではない
先に、肺炎という病気の重さを確認しておきたい。厚生労働省の人口動態統計(令和6年確定数)によると、肺炎による死亡は年間80,176人で死因の第5位、誤嚥性肺炎は63,667人で第6位。合わせると年間14万人を超える。決して「こじらせた風邪」ではない。
そして肺炎というと、多くの方が「激しい咳」「胸の痛み」を思い浮かべる。だが現場で重症の肺炎を拾うとき、決め手になるのは咳ではないことが多い。
見てほしいのは、この5つだ。
① 呼吸が速い
いちばん確実で、いちばん見落とされるサイン。服の上からでいい。胸やお腹の動きを、1分間数えてみてほしい。
ここで一つ、正直に書いておく。「呼吸数が何回以上なら救急車」という、一般の方向けの公的な数値基準は存在しない。数字はあくまで医療者が重症度を評価するための目安だ。参考までに挙げると、日本呼吸器学会のガイドラインでは、敗血症を疑う指標(qSOFA)の一つが呼吸数22回/分以上、医療・介護関連肺炎の死亡リスク因子の一つが呼吸数30回/分以上とされている。
大事なのは、正確な数字を当てることではない。普段より明らかに速い、肩で息をしている——その変化に気づくことだ。本人が「苦しい」と言わなくても、体は言っている。
② 食べない・飲まない
これは私の経験則ではなく、ガイドラインに書かれていることだ。日本呼吸器学会の『成人肺炎診療ガイドライン2024』は、「在宅高齢者の肺炎は発熱や咳嗽などの典型的な症状や聴診所見に乏しく、常にチーム全員が注意する」と明記している。さらに、「食欲不振、活動性の低下など、通常の状態からの変化や、呼吸数の増加、SpO₂の低下などの所見にも注意する必要がある」とも書かれている。
総務省消防庁の一般向け冊子『救急車を上手に使いましょう』も、高齢者について「高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう」と呼びかけている。
つまり——「食べない」「ぼんやりしている」は、肺炎の立派なサインだ。二週間食べていないのは、それだけで受診の理由になる。
なお、これらの記載はいずれも高齢者について書かれたもので、精神疾患のある方について述べたものではない。ただ、「不調を自分の言葉で訴えにくい」という一点において、今回の50代の方の状況と重なると私は考えている——ここは、公的資料ではなく私の見方だ。
③ 反応が鈍い・ぼんやりしている
いつもより返事が遅い、話がかみ合わない、寝てばかりいる。意識の変化は、感染が全身に及んでいるときのサインになりうる。
④ 唇や指先の色が悪い
紫っぽい、白っぽい。酸素が足りていないときに出る。
⑤ 座らないと呼吸できない
横になると苦しくて、起き上がってしまう。これはかなり進んだサインだ。
「本人が苦しいと言っていないから大丈夫」は、成り立たない。
「行きたくない」と言われたときに、できること
いちばん難しいのが、ここだ。答えを持っている人はいない。それでも、現場で見てきた中で、うまくいきやすかった形はある。
説得より、事実を一つだけ伝える 「入院になるよ」ではなく、「息が速いのが心配だ」「二週間食べていないのが心配だ」。本人を評価する言葉ではなく、目の前で起きている事実を一つだけ。
行き先を「精神科」ではなく「体」にする 「体の検査だけしてもらおう」という形なら受け入れられることがある。精神科への抵抗と、内科への抵抗は、別のものであることが多い。
精神保健福祉センターを、平時に調べておく 各都道府県・政令指定都市には精神保健福祉センターが置かれ、こころの健康に関する相談窓口がある。窓口の名称・受付時間・相談できる範囲はセンターごとに違うので、困ってから探すのではなく、困る前にお住まいの地域のセンターを一度見ておく。これが実際にいちばん効く。
そして——限界を超えたら、待たない 呼吸が速い、意識がおかしい、唇の色が悪い。ここまで来たら、本人の同意を待つ段階ではない。
「本人が嫌がるから呼べない」——その迷いのあいだにも、体は進んでいる
「行こう」と言い続けられるのは、家族しかいない。届かなかった日があっても、それは失敗ではない

