ある夏の朝でした。通報したのは、同居している娘さんです。
「母が、トイレから出てきてふらついて。……便が、真っ黒なんです」
電話口の声には、迷いがありました。無理もないと思います。お腹は痛くない。熱もない。吐いてもいない。救急車を呼ぶ理由として、本人も家族も、うまく言葉にできない。
トイレとの往復が、その日だけ少し増えていた——後から振り返ると、そういうことがあります(写真はイメージです)
けれど私たちは、その一言を聞いた時点で急ぎました。
「真っ黒い便」は、総務省消防庁が「ためらわず救急車を呼んでほしい症状」として、はっきり名前を挙げているサインだからです。
この記事では、実際の事案をもとに、痛みがないのに出血が進んでいることがあるという話と、家族が「便の色」以外のどこを見れば判断できるのかをお伝えします。
事案の経過——夏の朝、70代女性
時刻:夏の朝 場所:自宅 通報者:同居の娘さん 主訴:真っ黒い便が出た、立ち上がるとふらつく
ご本人は、居間の座椅子に座っておられました。会話はできます。受け答えもはっきりしています。
「大丈夫よ、お腹は痛くないの」
これが、この事案でいちばん大事な一言でした。お腹が痛くないことは、出血していないことの証明にはならないからです。
「痛くない」と言えることと、体の中で何も起きていないことは、別のことです(写真はイメージです)
私たちが確認したのは、便の色だけではありませんでした。
- 立ち上がろうとすると、ふらつく
- 顔色が、娘さんから見て「いつもより白い」
- 手が、少し冷たく湿っている
- ここ数日、食欲が落ちていた
そして服薬の確認をしたとき、娘さんが台所からお薬手帳を持ってきてくださいました。そこに書かれていた薬の内容が、私たちが病院へ伝える情報の一部になりました。
搬送先では、消化管からの出血を疑って検査が進められました。
なぜ「黒い便」なのか——色が意味していること
便が黒くなる理由には、はっきりした説明があります。
MSDマニュアル家庭版「消化管出血」には、こう書かれています。
黒色便は、出血部位が食道、胃、小腸にある場合に多くみられます。黒色便が黒い理由は、血液が胃酸や酵素、大腸に生息している細菌に数時間にわたりさらされて黒くなるからです。
つまり、黒いということは「血が体の中を通ってくる時間があった」ということです。口に近い側——食道や胃、小腸から出た血が、時間をかけて下りてくる間に黒く変わる。
一方で、赤い血が混じる場合は意味が変わります。
血便は、大腸から出血した場合に多くみられますが、上部消化管で非常に急速に出血が起きたときにもみられます。
ここは誤解されやすいところです。「赤いほうが新しい血だから危ない、黒いのは古い血だから落ち着いている」——そうではありません。黒い便は、出血がすでにしばらく続いていたことを示しているとも読めます。
そして、赤いほうも安心材料ではありません。
国立長寿医療研究センターの一般向けページ「血便の原因は? 痔?癌?それとも…?」には、こう書かれています。
赤い(鮮血)もしくは暗赤色の血液が肛門からでることを「血便」と言います。
一般の方にはあまり聞きなれない病気が、高齢者の血便の原因で多いことをご存じでしょうか。「大腸憩室出血」「虚血性腸炎」という病気です。
この大腸憩室出血について、同じページはこう説明しています。
腹痛を伴わず、突然出血することが特徴と言われています。
男性、高齢者、肥満、NSAIDsと呼ばれる解熱鎮痛剤やアスピリンを服用している人に多いと言われています。
しかし、一方で血圧が低下し、輸血を行うほどの大量出血になる場合もあります。
**赤くても、黒くても、「痛くないから軽い」という理屈は成り立たない。**これがこの記事でお伝えしたい一点目です。
背景にある薬が、出血の理由につながっていることがあります(写真はイメージです)
「痛くない」ことがある——これが、いちばん怖いところ
日本消化器病学会ほかが出している『患者さんとご家族のための消化性潰瘍ガイド2023』には、家族に読んでほしい一文があります。
消化性潰瘍の症状について説明したあと、こう続きます。
上腹部やみぞおちの鈍痛、吐き気、胸やけなどの症状があらわれ(ときに自覚症状がまったくない場合もあります)、悪化すると潰瘍から出血し、吐血や黒色便を引き起こすことがあります。
「ときに自覚症状がまったくない場合もあります」。
学会が、患者さんとご家族に向けた冊子の中で、わざわざこう書いている。これは現場の感覚とも一致します。「痛みがないから大したことない」という判断が、いちばん危ういのです。
さらに踏み込んで書いてある資料があります。MSDマニュアル家庭版の「消化性潰瘍」のページです。
消化性潰瘍の症状は潰瘍の位置や患者の年齢によって異なります。例えば、小児、高齢者、そしてNSAIDが原因の潰瘍がある人では、通常の症状がなかったり、症状がまったくなかったりすることがあります。
「高齢者」が、名指しで挙がっています。
そして同じページには、この記事の核心にあたる一文があります。
出血は潰瘍で最もよくみられる合併症で、痛みがなくても出血していることがあります
「典型的な症状が現れる患者は約半数に過ぎません」とも書かれています。半分の人は、教科書どおりの症状を出さない。
同じガイドは、出血が起きたときのことをこう書いています。
潰瘍から多量に出血すると、吐血や下血(黒色便)のほか、めまいや動悸といった貧血症状があらわれます。(中略)このような症状が出たときは緊急入院が必要ですから、昼夜を問わずすぐに受診するようにしましょう。
「昼夜を問わず」。学会が、時間帯を理由にためらわないでほしいと明記しています。
便の色より先に、体に出るサイン
正直に言うと、家族がいつも便の色を確認できるわけではありません。同居していても、高齢の親のトイレを毎回のぞくことはできない。
だからこの記事では、便を見ていなくても気づける手がかりのほうを重く扱います。
便を見られなくても、体のほうにサインが出ていることがあります(写真はイメージです)
MSDマニュアル家庭版は、出血の量とスピードによって症状が変わることを説明しています。
ゆっくり、少しずつ出血が続いた場合:
失血が緩慢で慢性的な場合は、貧血(赤血球の減少)の症状や徴候(筋力低下、疲れやすさ、蒼白、胸痛、めまいなど)を起こすことがあります。
急にたくさん出血した場合:
重篤な失血が突然に起こると、それに伴い脈拍が速まり、血圧が低下し、尿量が減少することがあります。さらに手足が冷たく湿ることもあります。
現場で私たちが見ているのは、まさにここです。「顔が白い」「立つとふらつく」「手がしっとり冷たい」「なんだか動くのがしんどそう」——これらは、家族が普段の様子との差として気づけるものです。
そして、この「ふらつき」と「顔色」は、消防庁のリーフレットにも別の項目として載っています。
- 支えなしで立てないぐらい急にふらつく
- 顔色が明らかに悪い
- 冷や汗を伴うような強い吐き気
- ぐったりしている
(総務省消防庁『救急車を上手に使いましょう』おとなのページより。「顔色が明らかに悪い」はおとなのページにあり、高齢者のページにはありません)
つまり、便の色を確認できていなくても、この状態なら救急車を呼ぶ理由として十分だということです。
立ちくらみや失神が単独で起きたときの考え方は、60代男性、居間で「数秒だけ」失神した——それでも救急隊が搬送を強く勧めた理由にも書きました。
消防庁が「おなか」の欄に書いていること
ここが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。
総務省消防庁のリーフレット**『救急車を上手に使いましょう』(令和7年12月発行)には、「ためらわず救急車を呼んでほしい症状」という一覧があります。そのおとなの「おなか」の欄**には、こう書かれています。
● 突然の激しい腹痛 ● 激しい腹痛が持続する ● 血を吐く ● 便に血が混ざる または、真っ黒い便が出る
「真っ黒い便が出る」。
痛みの有無は条件になっていません。熱の有無も、吐いたかどうかも書かれていない。便が真っ黒である、それだけで挙がっているのです。
私が現場で「その一言で急いだ」と書いたのは、これが理由です。救急隊の判断は、感覚ではなく、こうした公的な基準の上に乗っています。
ただし、高齢者の欄には書かれていません
正確にお伝えします。同じリーフレットの高齢者の欄には、「おなか」の項目として**「突然の激しい腹痛」「血を吐く」は載っていますが、「真っ黒い便」は載っていません**。
なぜ高齢者のページにないのか——**その理由は、リーフレットには説明されていません。**私にもわかりません。ですので、ここは事実だけをお伝えします。
ただ、同じ高齢者のページの冒頭には、こう書かれています。
高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう。
**症状が出にくい人ほど、出ているサインの重みは増す。**これは消防庁がそう書いているのではなく、現場に出ている私自身の受け取り方です。そのうえで申し上げると、高齢の親に真っ黒い便が出たとき、私は「高齢者のページに載っていないから」という理由で様子を見ることはしません。
高齢者が典型的な症状を出さないまま重い病気が進む例は、このブログでも繰り返し扱ってきました。熱も咳もないのに酸素が下がっていた事案は、「1週間、食べられていない」——熱はなかった。けれど酸素は88%だったにまとめています。
「最近あまり食べていない」も、単独では見過ごされやすいサインです(写真はイメージです)
黒い便が、出血ではないこともあります
ここは正直に書きます。便が黒く見えても、出血ではない場合があります。
いちばんよくあるのが鉄剤です。貧血の治療で処方される薬ですが、これは推測ではなく、国(PMDA)に届け出られている添付文書に明記されています。
鉄剤のひとつであるフェロミア錠の添付文書「その他の注意」には、こう書かれています。
本剤の投与により便が黒色を呈することがある。
貧血の治療で鉄剤を飲んでいる方の便が黒くなるのは、薬の説明書に最初から書いてあることです。珍しいことではありません。
(MSDマニュアル プロフェッショナル版は、鉄のほかに「ビスマス、種々の食物の摂取」も挙げています。ただし具体的にどの食品かは、日本の公的資料でもMSDでも書かれていませんでした。「あの食べ物のせいだ」と自分で当てはめるのは危険です。)
ただし——これは「様子を見ていい理由」にはなりません。
鉄剤を飲んでいるかどうかは、病院で医師に伝える情報であって、家庭で「じゃあ大丈夫」と結論を出すための材料ではないからです。飲んでいる薬の情報は、受診や搬送のときに持っていくもの。それが、いちばん役に立つ使い方です。
お薬手帳の備え方は、家庭の常備薬とお薬手帳——救急のとき役立てる整理術に詳しく書きました。
なぜ、高齢の親で急ぐのか
もうひとつ、背景にある事情があります。痛み止めの薬です。
先ほどの消化性潰瘍ガイドは、日本の現状をこう説明しています。
わが国では高齢化が進み、非ステロイド性抗炎症薬を痛み止めや脳心血管疾患の予防として服用する患者さんが増えており、薬剤性潰瘍の割合が高まっています。
「非ステロイド性抗炎症薬」というのが、いわゆる痛み止めのことです。
さらに、アスピリンについてはこう書かれています。
脳卒中や心筋梗塞になった方、あるいはその危険性がある方は、再発予防のためにアスピリンを処方されることがあります。アスピリンも非ステロイド性抗炎症薬の1種なので、潰瘍のある方や潰瘍になったことのある方では注意が必要です。当てはまる方は主治医にご相談ください。
膝が痛い、腰が痛いで痛み止めを飲んでいる。心筋梗塞や脳梗塞の後で薬を飲んでいる。どちらも、高齢の親の暮らしではごく普通のことです。
そして専門家向けの『消化性潰瘍診療ガイドライン2020』には、こう書かれています。
NSAIDs服用中には出血などの合併症を有することが多く,消化管出血を起こす場合でも無症状の割合が高い.
一般的に消化性潰瘍では上腹部痛などの自覚症状を有することが多いが,NSAIDs潰瘍の半分近くは自覚症状を欠いている
ここで絶対に誤解しないでいただきたいこと
この話を読んで、「じゃあ薬をやめさせよう」と考えないでください。
痛み止めも、血液をさらさらにする薬も、**飲む理由があって処方されています。**とくに脳梗塞や心筋梗塞の後に出ている薬を自分の判断でやめることは、別の重大な事態につながります。
消化性潰瘍ガイドも、この点をはっきり書いています。
腹痛がよくなったからといって、ご自身の判断で薬をやめてしまうのは危険です。
また、他の病気の治療のために投与される非ステロイド性抗炎症薬やアスピリンなどは、消化性潰瘍の原因になりえますので、主治医とよく相談されることをお勧めします。
やめるかどうかを決めるのは医師です。家族がやるべきなのは、薬を止めることではなく、「この薬を飲んでいます」と正確に伝えることです。
そしてMSDマニュアル プロフェッショナル版には、こう書かれています。
大量の消化管出血は高齢患者には耐えられない可能性が高い。
若い人が耐えられる出血量でも、高齢の方では体がもたないことがある。「同じ量の出血でも、意味が違う」——これが、私たちが高齢の方の下血で急ぐ理由です。
食欲が落ちている、というだけの変化が先に来ていることがあります(写真はイメージです)
ついでに、ひとつ誤解を解いておきます
「胃潰瘍はストレスと煙草でなる」と思っている方は多いと思います。私もそう思っていました。
ところが、消化性潰瘍ガイドにはこう書かれています。
大規模災害時などの強いストレスでは潰瘍の報告もありますが、一般的な生活でのストレスや喫煙で潰瘍の原因となるという根拠はありません。
原因の2本柱は、ピロリ菌の感染と痛み止めの薬です。
(※ただし同じガイドは、すでに潰瘍がある人にとっては喫煙・過度の飲酒・睡眠不足・強いストレスが悪化する要因になる、とも書いています。「原因ではない」ことと「関係ない」ことは別です。)
「ストレスのせいだろう」で片づけると、本当の原因である薬やピロリ菌にたどり着けなくなる。ここは知っておいて損がないところだと思います。
救急隊や医師に聞かれることは、だいたい決まっています(写真はイメージです)
迷ったときに相談できる番号があります(写真はイメージです)
「痛くない」と言えるうちに動けることが、いちばんの強みです(写真はイメージです)
次の朝を、いつもどおりに迎えるために(写真はイメージです)

