9月に入りました。
今朝の記事では、秋に集中する毒キノコによる食中毒の話を書きました。夕方のこの記事は、まったく別の病気です。ただ、これから寒くなる季節に向かって増えていくという点だけが、共通しています。
今日は、総務省消防庁のリーフレットに載っている、たった一行の症状の話をします。
「痛む場所が移動する」
この一行が、どの病気のために置かれているのか。そして、なぜ家庭でいちばん見落とされるのか。順番に書いていきます。
1. 症状——「痛いところが、さっきと違うんです」
はじめにお断りしておきます。**これは特定のどなたかの事案の話ではありません。**公的資料に書かれている典型的な症状の並び方を、家庭で見える形に置き直したものです。
典型的には、こういう形をとります。
突然、胸か背中に、これまで経験したことのない強さの痛みが起こります。
「だんだん痛くなってきた」ではありません。時計の針が動いた瞬間に、そこから痛い。ご本人は「何時何分に始まった」と答えられることが多いくらい、始まりがはっきりしています。
ガイドラインは痛みの性状を「鋭く引き裂かれるような痛み」と書いています。
そして——ここからが、この病気の分かれ目です。
しばらくすると、痛みの場所が動きます。
胸が痛かったはずなのに、いつの間にか背中が痛い。背中だったのが、腰やお腹に下りてくる。家族が「さっきと言っていることが違う」と感じる場面です。
さらに厄介なことに、痛みが一度、軽くなることがあります。
本人は「おさまってきた」と言います。家族は「よかった」と思います。救急車を呼ぼうかと話していたのが、「もう少し様子を見よう」に変わります。
日本循環器学会など7学会の合同研究班による『2020年改訂版 大動脈瘤・大動脈解離診療ガイドライン』は、この経過を正面から書いています。
大半の症例で発症時に胸部・背部に激痛を訴え,過去に経験したことのない強い疼痛と表現されることが多い.性状は鋭く引き裂かれるような痛みであり,突然発症が特徴的である.A型解離では前胸部痛,B型解離では背部痛や腹痛が特徴的である.また,痛みは解離部位の拡大とともに移動したり,逆に解離の進展が止まると一時的に疼痛が消退することもある.一方で,急性大動脈解離の6%程度は無痛性であることも重要である
(日本循環器学会ほか『2020年改訂版 大動脈瘤・大動脈解離診療ガイドライン』第3章 p.26。2024年8月30日更新)
読み直してほしいのは、真ん中の一文です。
「痛みは解離部位の拡大とともに移動したり」——痛みが動くのは、体の中で裂け目が広がっているからです。
「逆に解離の進展が止まると一時的に疼痛が消退することもある」——痛みが軽くなるのは、治ったからではなく、裂けるのがいったん止まっただけです。
そして同じページには、こうも書かれています。
9~20%は典型的疼痛がなく失神をきたす
痛みを訴えないまま、倒れる形で始まることがある、ということです。
胸から背中へ。痛む場所が動くのは、大動脈に沿って裂け目が伸びているからです(写真はイメージです)
2. 救急隊は、何を疑いながら向かうか
119番の内容が「突然の胸の痛み」「突然の背中の痛み」であれば、救急隊は複数の病気を同時に頭に置いて向かいます。心筋梗塞、肺の血管が詰まるもの、自然気胸、そして大動脈が裂けるもの。
**現場で、どれかに決めることはできません。**心電図で分かるものもあれば、分からないものもあります。
ただ、ガイドラインは「疑うべき所見」を並べて示しています。
急性解離を疑う臨床症状・所見として,突然生じる激烈な胸背部痛・胸内苦悶,ショックバイタル,異常高血圧,意識障害・下肢麻痺,腹痛,腰痛,移動性疼痛,血圧の左右差,上下肢血圧差,脈拍欠損,などがある
(同ガイドライン 第6章 p.109)
このリストのうち、家庭で分かるものが1つだけあります。
「移動性疼痛」——痛む場所が移動することです。
血圧の左右差も、脈が触れないことも、私たちが現場で両腕を測って初めて分かることです。家庭用の血圧計は片腕にしか巻きませんし、そもそも激痛のある人に「もう片方も測ろう」と言える状況ではありません。
でも、「さっきは胸だったのに、今は背中だ」は、そばにいる家族にしか分からない情報です。
現場でできる観察には限りがあります。家族の一言が、そこを埋めます(写真はイメージです)
3. 検査——病院で何が行われるか
病院に着くと、まず心電図と血液検査、胸のレントゲンが行われます。それと並行して、超音波(エコー)検査が行われることがあります。
そのうえで、診断を確定させるのは造影CT検査です。ガイドラインは、こう書いています。
AAS診断のゴールドスタンダードは造影CT検査であるが,初療(とくに地域医療での)ではAASを疑っても,造影剤アレルギーや腎機能障害を考慮して単純CT検査のみ行われることも少なくない
(同ガイドライン 第4章 p.43。AAS=急性大動脈症候群。大動脈解離を含む、大動脈が原因で急激に発症する病気のまとまりを指す言葉です)
同じガイドラインには、こういう一文もあります。
侵襲的治療(外科手術,SG内挿術)に到達できれば9割が救命可能なことを考慮すると,迅速かつ簡便なエコー検査により,誤診やそれによる搬送の遅れを回避することが望ましい
(同ガイドライン 第4章 p.43。SG内挿術=ステントグラフト内挿術)
**手術にたどり着けば9割が助かる。**だから、たどり着くまでの時間の話になる——ガイドラインはそういう順序で書いています。
診断を確定させるのは造影CT検査だと、ガイドラインは書いています(写真はイメージです)
4. 傷病名は「急性大動脈解離」でした
大動脈は、心臓から出て体じゅうに血液を送る、人体でいちばん太い血管です。国立循環器病研究センターは、その形をこう説明しています。
クエスチョンマーク「?」のように弓状に曲がりながら脳や、左右の腕に栄養を運ぶ3本の枝を出し、幹の部分は背中側に回り下半身へ向かいます
(国立循環器病研究センター「大動脈瘤と大動脈解離」)
**心臓から出て、頭のほうへ上り、Uターンして、背中側を通って下りていく。**この道筋を覚えておいてください。痛みが胸から背中、背中から腰へ動くのは、この管に沿って裂け目が伸びていくからです。
その大動脈の壁は3層構造になっています。
大動脈は内膜、中膜、外膜の3層に分かれています。中膜がなんらかの原因で裂けて、もともとは大動脈の壁であった部分に血液が流れ込むことで大動脈内に二つの通り道ができる状態が大動脈解離です
(同)
**血管が破れるのではなく、壁が「裂けて層が分かれる」。**それが「解離」という言葉の意味です。
そして、裂けたばかりの大動脈は、壁が薄くなっています。
起こったばかりの時は、血管が裂けているために血管の壁が薄くなり、きわめて破裂しやすい状態にあります。特に上行大動脈に解離が及ぶA型では、1時間に1%ずつ死亡率が上昇すると言われています。つまり、48時間以内におよそ半分の患者さんが亡くなることになります
(同)
診療ガイドラインの記述も同じ向きです。
上行大動脈に解離が及ぶA型解離はきわめて予後不良の疾患で,発症後に致死率が1時間あたり1~2%上昇すると報告されており,侵襲的治療(外科手術/TEVAR)を行わなければ**48時間以内の致死率が約50%**とされる
(同ガイドライン 第6章 p.96)
1時間ごとに、1〜2%。
これは私が現場で口にする数字ではありません。ですが、この記事を読んでいる方には、意味を知っておいてほしい数字です。「様子を見よう」の1時間には、値段がついています。
「何時何分に始まったか」は、家族が残せる情報のひとつです(写真はイメージです)
どのくらい起きているのか
日本には全国統計がありません。ガイドライン自身が「本邦における大動脈瘤と大動脈解離に関する全国統計はいまだなく,その正確な発症率は不明である」と書いています。
そのうえで、こう記されています。
10万人あたりの年間発症数はおよそ3人前後と思われていたが,東京都急性大動脈スーパーネットワークのデータでは,急性大動脈解離の発症は10万人あたり年間10人であると報告されている
(同ガイドライン 第2章 p.19)
10万人に3人から10人。決して多い病気ではありません。
ただし、突然死を扱う統計から見ると、景色が変わります。東京都監察医務院の報告(発病後短時間で死亡、あるいは予期しない死亡のケースの解剖がほとんど=突然死の剖検報告)について、ガイドラインはこうまとめています。
**病院着前死亡は61.4%に及ぶ.**発症から死亡まで1時間以内は7.3%,1~6時間は12.4%,6~24時間は11.7%であり,病院着前死亡と併せると,93%が24時間以内に死亡したことになる
(同ガイドライン 第2章 p.19-20)
**この61.4%と93%は、「突然死として解剖された症例」の中での割合です。**急性大動脈解離になった人全体の死亡率ではありません。そこは混ぜないでください。
それでも、この数字が示していることは一つです。**病院に着く前に亡くなっている人が、相当数いる。**私たちが呼ばれる時点で、すでに時間との勝負が始まっています。
病院に着く前という時間帯が、この病気にはあります(写真はイメージです)
年齢と季節
大動脈解離の発症が多い年齢は男女とも70代とされていますが、40代や50代で発症することも稀ではありません。
(国立循環器病研究センター「大動脈瘤と大動脈解離」)
そして、季節と時間帯です。
また、大動脈解離の発症は冬場に多く、夏場に少ない傾向があります。また、時間的には活動時間帯である日中が多く、特に6~12時に多いと報告されています。逆に深夜から早朝は少ないようです。
(同。診療ガイドライン第2章 p.19にも同じ記述があります)
今日から、増えていく側の季節に入ります。
「9月に急に増える」とは、どの資料にも書かれていません。書いてあるのは「冬に多く夏に少ない」という傾向だけです。ですから私も、そこまでしか書きません。
ただ、夏がいちばん少ない季節だとすれば、9月1日は、いちばん少ない時期の終わりの日です。
発症は午前6〜12時に多いと報告されています(写真はイメージです)
5. 「急性大動脈解離」とは——家庭から見た3つの顔
この病気が家庭で見落とされる理由は、症状が「大動脈の病気らしく」見えないことにあります。国立循環器病研究センターは、そこをはっきり書いています。
例えば脳に血液を送る血管が解離で血流障害を起こした場合には、「脳卒中」による意識障害を疑われて脳神経科へ搬送されてから大動脈解離であることが分かることはよくあります。血流障害による手や足の痛みで発症したり、急性心筋梗塞を疑われてカテーテル治療を開始してから分かることもあります。
(同)
**病院の中でさえ、別の病気として動き始めてから分かることがある。**公的機関がそう書いています。家庭で見分けられるはずがありません。
だから家庭でやることは、見分けることではありません。
① 痛みが「動く」
胸→背中、背中→腰、腰→足。これは大動脈の走り方そのものです。
② 痛みが「いったん引く」
ガイドラインの「解離の進展が止まると一時的に疼痛が消退することもある」です。引いたことは、治ったことではありません。
このブログでは、同じ形をした病気を何度も扱ってきました。痛みが治まった後は体調が良好に見える急性胆管炎、痛がったりけろっとしたりを繰り返す赤ちゃんの腸重積症、症状が1日でいったんおさまる毒キノコによる食中毒。
**「よくなったように見える時間がある」ことが、その病気の特徴として一次資料に書かれている。**急性大動脈解離も、その一つです。
③ 痛くない場合がある
「6%程度は無痛性」「9〜20%は典型的疼痛がなく失神をきたす」。
痛みがないから違う、とは言えません。
発症のピークは男女とも70代。ただし40代・50代も稀ではありません(写真はイメージです)

冷房の効いた部屋と、外の空気。9月はその差がいちばん揺れます(写真はイメージです)
本人が話せないとき、家族の情報だけが手がかりになります(写真はイメージです)

