夏のある午後、119番に電話が入った。
「母が腰が痛くて動けないんです。お願いします」
落ち着いた声だった。
緊急性が高い通報には聞こえなかった。
私たちは3名で出動した。
現場に着いたとき、80代の女性はリビングの床に横になっていた。そばに家族がいた。
「さっきまで話せていたんです」
でも、呼吸はなかった。
心臓も止まっていた。
家族は、気づいていなかった。
私は現役救命士として経験を積んできました。この事案は、今でも頭から離れません。腰痛から始まった通報が「3名出動」になった理由、そして大動脈破裂という病気が家族にとってどれほど見えにくいか——それを伝えなければと思って書きます。
「さっきまで話していた」——その家の廊下は、静かだった
通報は「腰痛」——現場は心肺停止だった
通報内容は「腰が痛くて動けない」。会話は成立していた。
救急指令センターは通報内容をもとに出動体制を決める。私たちは3名で向かった。
現場に向かう途中、まだ「腰痛への対応」を頭の中で描いていた。
ドアを開けて目に入ったのは、床に横たわる女性と、そばで声をかけ続ける家族の姿だった。
「お母さん、救急隊が来てくれたよ。ねえ、お母さん」
呼びかけへの反応がない。胸の動きがない。頸動脈の拍動が触れない。
心肺停止(CPA)だった。
AED(自動体外式除細動器)を装着すると、機械が判断した。
「ショックは不要です。CPRを続けてください」
電気的活動はあるが、心臓が血液を送り出せていない状態——PEA(無脈性電気活動)だった。
腹部大動脈破裂による大量出血でこうなることがある。内部で出血が続いているとき、血液がなければ、電気信号が残っていても心臓は動くことができない。
通報内容が、出動体制を決める——「腰が痛い」と「突然の激しい痛み+顔色が悪い」では初動が変わる
3名で出動した日——通報の言葉が体制を決める
救急出動には、通報内容をもとに決まる体制がある。
「腰が痛くて動けない」——この内容では、心停止の可能性は低いと判断される。
もし通報の時点で「突然の激しい痛みが来た」「顔色が真っ青になった」「意識がおかしくなっている」という情報があれば、出動体制が変わっていたかもしれない。
現場でCPAと分かったとき、3名というマンパワーの制約を感じた。
CPRを絶え間なく続けながら、静脈路を確保し、薬剤を投与し、AEDを管理し、受け入れ病院を探す——これだけのことを、3名でこなさなければならない。
総務省消防庁のデータでも、心肺停止患者への早期・適切な対応において、出動隊員数が処置の質に影響することが示されている。
通報の言葉は、現場の体制に直結する。
「腰が痛い」の一言に、「突然に来た」「これまでにない激痛だ」「顔色がおかしい」を加えるだけで、私たちは別の準備をして向かうことができる。
処置の実際——アドレナリン6本を投与しても
CPRを開始した。
静脈路を確保してアドレナリン(エピネフリン)の投与を始めた。3〜5分おきに投与を繰り返し、計6本になった。
自動心臓マッサージ装置を装着して、胸骨圧迫を継続した。
でも、心臓は動かなかった。
医学的にはこういうことだ。
腹部大動脈瘤が破裂すると、大量の血液が腹腔内に流れ出す。血圧が急激に低下し、全身の循環が止まる。アドレナリンは心臓の収縮力を高める薬剤だが、出血源が塞がれていない限り、その効果は根本的な解決にならない。
根本的な治療は手術——破裂した血管を緊急に修復すること、それだけだ。
しかし心臓がすでに止まっている状態では、手術台に乗ることがきわめて難しい。
日本血管外科学会・日本循環器学会が示す診療指針でも、腹部大動脈瘤破裂の院外心停止症例における救命率は非常に低いとされている。
救えない病気がある。それが現場の現実だ。
大動脈破裂の根本治療は緊急手術——しかし心停止後にたどり着けるケースは限られる
病院照会4回——搬送先が決まらなかった時間
心肺停止の傷病者を受け入れられる病院は、限られている。
緊急手術に対応できる術者がいること、手術室が空いていること、血液製剤が揃っていること——条件が重なって初めて「受け入れます」という返答が来る。
この日は4つの病院への照会が必要だった。
1件目、「対応困難です」。
2件目、「緊急手術の対応が現在できません」。
3件目、「確認します……やはり難しい状況です」。
4件目でようやく受け入れ先が決まった。
その間も、車内でCPRを続けた。
搬送先が見つかるまでの時間は、家族にとっても、私たちにとっても、長かった。
「病院が決まらない」という状況は特定の地域だけの問題ではない。消防庁のデータでも、心肺停止患者の搬送先確保に時間を要するケースが全国的に存在することが示されている。
「腰が痛い」だけじゃない——見逃してはいけないサイン
腰痛には、大きく2種類ある。
一つは、筋肉・骨格に由来するいわゆる「ぎっくり腰」や椎間板ヘルニア。もう一つは、血管や内臓に由来する腰痛で、腹部大動脈瘤破裂・大動脈解離・腎梗塞などが含まれる。
腹部大動脈瘤破裂の場合、腰痛の「質」がまったく違う。
危険な腰痛の5つのサイン
① 「突然に」「これまでにない」激しい痛みが来た
筋肉痛や椎間板ヘルニアは、動いているうちに気づくことが多い。腹部大動脈の破裂は、何もしていないときに突然、最大の痛みが来ることが特徴だ。「引き裂かれるような」「ずきずきするのとは違う、深いところからの激痛」と表現されることがある。
② 痛みが腰だけでなく腹部にも広がる
大動脈は背骨の前側を走っている。破裂すると腹部・腰部の両方に痛みが出ることがある。「腰と腹の両方が痛い」という場合は要注意だ。
③ 冷汗・顔面蒼白・虚脱感が重なる
出血性ショックの兆候だ。痛みのわりに顔色が青ざめている、冷たい汗をかいている、座っていられないほどぐったりしている——これは血圧が急降下しているサインかもしれない。
④ 足がしびれる・冷たくなる
大動脈から下半身への血流が低下すると、足の冷感・しびれが起こることがある。「痛みとともに足に違和感がある」という場合は見逃さないでほしい。
⑤ 高齢+高血圧の既往がある
腹部大動脈瘤は70〜80代の高齢者、特に高血圧や動脈硬化のある方に多い。日本血管外科学会・日本心臓財団も、こうした背景を持つ方への定期検査と早期発見の重要性を強調している。高血圧のコントロール中・喫煙歴のある方は特に注意してほしい。
「腰が痛い」には種類がある——「突然の激痛+全身症状」は即119番のサイン
119番に「突然の激しい腰痛+顔色が悪い」と伝えることが、出動体制を変える第一歩

