ある夏の日でした。通報してきたのは、ご主人です。
「妻が、お腹が痛いと言っていて……出血もしています。妊娠中なんです」
電話口の声は、はっきりしていました。けれど、少し早口でした。何を伝えればいいのかわからない、という早口です。
「様子を見ていいのか、すぐ動くべきなのか」——妊娠中の判断は、そこがいちばん難しいところです(写真はイメージです)
このブログでは、高齢のご家族の救急事案を扱うことが多くあります。けれど救急隊が向かう先は、高齢者の家だけではありません。妊娠中の方の腹痛や出血も、私たちが受ける通報のひとつです。
そして正直に申し上げると、**この種の通報は、私たち救急隊にとっても緊張します。**理由は記事の中で書きます。
この記事では、妊娠中に「お腹が痛い」「出血した」が起きたとき、本人と家族がどこで線を引けばいいのかを、公的な資料の原文をもとに整理します。
事案の経過——ある夏の日、30代女性
時刻:夏のある日 場所:自宅 通報者:夫 主訴:腹痛、性器出血。妊娠中
到着したとき、ご本人は居間のソファに横になっておられました。会話はできます。受け答えもはっきりしています。
「痛いんですけど……病院に行くほどか、わからなくて」
この一言は、私たちが本当によく聞く言葉です。そして、この言葉が出るときこそ、判断を家族だけで抱え込まないでほしい場面でもあります。
念のため先に申し上げておきます。**救急隊は診断をしません。**この事案で何が起きていたのかを、私がここに書くことはできませんし、書くべきでもありません。
この記事で書けるのは、私たちが何を考えながら病院へ向かったか、そしてその考え方の裏づけになっている公的な資料に何が書いてあるかです。
妊娠中の出血は「よくあること」でもあり「すべて警戒すべき徴候」でもある
まず、数字から整理します。矛盾しているように見える2つの事実があります。
MSDマニュアル家庭版「妊娠前半にみられる性器出血」には、こう書かれています。
妊娠の最初の20週間に、20~30%の女性に性器出血がみられます
5人に1人から3人に1人。妊娠初期の出血は、けっして珍しいことではありません。
ところが同じページには、続けてこう書かれています。
出血がみられた女性の約半数が、流産に至ります
そして、妊娠後半(20週以降)については、まったく別の書き方になります。
3~4%の妊婦に妊娠後半(妊娠20週以降)に性器出血がみられます。
妊娠後半にみられる性器出血は、粘液の栓の排出や産徴(少量の血液しかみられず、長くは続かない)によるものを除き、すべて警戒すべき徴候とみなされます。
「すべて警戒すべき徴候」。ここに例外は、産徴(いわゆる「おしるし」)しか挙がっていません。
そして受診のタイミングについては、こうです。
妊娠後半に性器出血が起こった場合、直ちに病院に行くべきです。
つまり、妊娠の前半と後半では、出血の意味が変わるということです。前半は珍しくない。けれど後半は、産徴以外はすべて警戒。これが、家庭で持っておくべき第一の線引きです。
「今、妊娠何週か」は、判断のいちばん最初に来る情報です(写真はイメージです)
いちばん覚えてほしい——国が示す「3つのチェック」
ここからが、この記事の中心です。
国立成育医療研究センター(国立高度専門医療研究センターのひとつです)が一般向けに公開している資料に、妊娠中期を過ぎた方に覚えておいてほしい3つのチェック事項が示されています。
1.腹痛がずっと続いている 2.少量ではない出血 3.赤ちゃんの動きが感じられない
たった3つです。専門知識も、道具もいりません。
そして同センターは、この3つを示したうえで、こう書いています。
万一この病気になっても素早い対応でリスクを減らすことは可能です。妊娠中期を過ぎたら、左の3つのチェック事項を頭に入れ、自己管理に努めましょう。
「この病気」というのが、**常位胎盤早期剥離(じょういたいばんそうきはくり)**です。
常位胎盤早期剥離——「何の前ぶれもなく、突然」
聞き慣れない病名だと思います。私も、救急救命士の勉強を始めるまで知りませんでした。
国立成育医療研究センターの説明を、そのまま引用します。
妊娠中、赤ちゃんの成長にかかせない酸素や栄養は、お母さんの体から胎盤を通してやりとりされています。この胎盤は、通常赤ちゃんが胎外に取り出された後に子宮の壁からはがれ落ちるものですが、出産が完了する前に何の前ぶれもなく、突然はがれてしまうことがあります。
赤ちゃんが酸素と栄養を受け取っている通り道が、生まれる前に切れてしまう。そういう病気です。
頻度と重さについても、はっきり書かれています。
100 ~200 分娩に1 例程度という頻度で起こり、死産となるような重症例は500 ~750 分娩に1 例程度といわれています。妊娠32 週以降に起こることが多いといわれていますが、いつでも起こり得る可能性があります。
この病気になった場合、25 ~30% は赤ちゃんの死亡に終わるとされていて、全周産期死亡(死産と早期新生児死亡)から見ても**約20% をこの病気が占めています。**また、母体にとっても大量出血や止血異常など、高いリスクがあります。妊産婦死亡の主要な原因のひとつでもあり、母児両者の命に関わる重大な病気といえます。
赤ちゃんが亡くなる原因の約5分の1を、この一つの病気が占めている。そして、お母さんの命にも関わる。
原因についてはこうです。
原因ははっきりしていませんが、母体の高血圧、妊娠高血圧症候群、前期破水、喫煙などが関連するという説があります。
「原因ははっきりしていません」。つまり、「私は当てはまらないから大丈夫」と言い切れる条件が、そもそも存在しないということです。同センターの見出しも「いつでも誰にでも起こりえる」となっています。
「横になって様子を見る」が、いちばん選ばれやすい選択肢です(写真はイメージです)
陣痛との違いは、「痛みが続くかどうか」
この記事のタイトルにした部分です。
同じ資料に、症状の説明があります。
症状としては、性器出血や子宮の圧痛・腹痛、頻回な子宮収縮などがあります。はがれた胎盤からの出血は、量が多い場合も少ないこともあります。腹痛は痛みと無痛が規則的に訪れる陣痛や前駆陣痛と違い、痛みが持続することが特徴です。
陣痛は、痛い時間と痛くない時間が交互に来る。それに対して、この病気の痛みは続く。
「何時から痛いのか」を見ておくだけで、伝わり方が変わります(写真はイメージです)
これが、家庭で使えるいちばんシンプルな見分け方です。「波がある」のか「ずっと痛い」のか。
そして、そのすぐあとに続く一文が、私がこの記事でどうしても伝えたい部分です。
ただしこれらの症状がすべて出ることもあれば、ないこともあります。
症状が出ないこともある。
出血が少ないこともある。痛みがはっきりしないこともある。「教科書どおりに揃わない」ことを、資料自身が認めているわけです。
だからこそ、揃うのを待たないでほしい。3つのうち1つでも当てはまったら、それが行動の理由になります。
同センターは、行動についてもはっきり書いています。
腹痛がずっと続くようなときは、すぐに病院へ連絡します。
そして、診断の難しさについても、こうです。
この病気は、確定診断がとても難しいので、病気を疑い、細心の注意をはらって観察することになります。
専門の医師にとっても診断が難しい病気を、家庭で「たぶん大丈夫」と判断することはできません。これが、私が救急隊としてこの種の通報に緊張する理由のひとつです。
どこに電話するかで迷って時間が過ぎる——それがいちばんもったいないところです(写真はイメージです)
妊娠週数もかかりつけも、1冊にまとまっています(写真はイメージです)
そばにいる人にしかできないことが、いくつもあります(写真はイメージです)
迷った時間の分だけ、選べる選択肢は減っていきます(写真はイメージです)
着いてしまえば、あとは専門家の仕事です(写真はイメージです)
次の健診まで待たなくていい日が、あります(写真はイメージです)

