
夏の朝、9時前。
「主人が、居間の椅子から急に崩れ落ちて……。声をかけたらすぐ目は開けたんですが、なんだか怖くて」
電話口の奥様の声は落ち着いていた。でも、語尾が震えていた。
「今は普通に話しています。『大丈夫だ』って言ってます。でも……救急車、呼んでもいいですか」
「もちろんです。すぐ向かいます。ご主人のそばを離れないで、横にならせてあげてください」
私は現役救命士で経験20年。 この電話で私の頭にすぐ浮かんだのは、「数秒で戻った失神」という言葉の危うさでした。
「大丈夫そう」に見える失神ほど、実は最も慎重に扱わないといけない——現場でそう学んできたからです。
救急隊員が見た現場のバイタル

到着したとき、ご主人はソファに座って、麦茶を飲んでいらっしゃった。
顔色はふつう。会話もはっきり。 「もうすっかり大丈夫です。呼んでもらったのに、申し訳ない」と笑顔まで見せてくれる。
見た目には「あ、これは軽そうだな」と誰もが思う状態。
でも、測定した数値と、聞き取った経過は、別のことを語り始めた。
現場で計った血圧・脈・体温
| 項目 | 数値 | 評価 |
|---|---|---|
| 意識 | 清明(会話・見当識ともに問題なし) | 良好 |
| 意識レベル(目・声・動き) | 15点(すべて正常) | 良好 |
| 呼吸 | 16回/分 | 正常 |
| 脈 | 52回/分(やや遅め・不整あり) | 要注意 |
| 血圧 | 128/72 | 正常 |
| 血液中の酸素 | 98%(正常は95%以上) | 正常 |
| 体温 | 36.4℃ | 正常 |
参考:バイタルの正常値の目安
| 項目 | 患者の値 | 正常値 | 判定 |
|---|---|---|---|
| 血圧 | 128/72 | 収縮期<130、拡張期<85 | 正常範囲 |
| 脈拍 | 52回/分・不整 | 60〜100回/分 | やや遅め+リズムの乱れ |
| SpO2(酸素飽和度) | 98% | 95〜100% | 正常 |
| 体温 | 36.4℃ | 36.0〜37.0℃ | 正常 |
一見、ほぼ正常です。血圧も酸素も問題ない。
でも、注目したのは脈でした。
52回/分——ふつうは60〜100回/分。運動をされている方なら50台もあり得ますが、この方はデスクワーク中心とのこと。しかも、指で触れた脈にわずかな「飛び」がある。
そして、ご本人と奥様から経過を聞くうちに、「これは慎重に扱わないといけない」というスイッチが、私の中で入りました。
「数秒で戻った」という失神が、いちばん怖い

失神とは、脳の血流が一時的に足りなくなって意識を失い、自然に回復するもの——というのが医学的な定義です(MSDマニュアル プロフェッショナル版・失神)。
そして失神には、大きく3つのタイプがあります。
① 反射性失神(血管迷走神経性失神)——比較的良性
長時間の立ちっぱなし、強い痛み・恐怖、採血、排尿・排便でのいきみなど、明らかな「きっかけ」があって起こるタイプ。
このタイプは、失神の前に「気持ち悪い」「冷や汗」「あくび」「目の前が暗くなる」といった警告症状があることが多く、意識が戻ってからも数分〜十数分は「ぼんやり感」が残るのが特徴です。
② 起立性失神——高齢者に多い
寝ていた・座っていた状態から急に立ち上がった直後に、目の前が真っ暗になって倒れるタイプ。
血圧を下げる薬、利尿剤、長期の寝たきり、脱水、貧血、パーキンソン病などの自律神経障害が背景にあります。
③ 心原性失神——命に関わる
不整脈や、心臓弁の病気、心筋症などが原因で、心臓から脳への血流が突然途絶えて起こるタイプ。
このタイプの怖さは、予告なくいきなり倒れて、目が覚めた瞬間からケロッとしていることです。
MSDマニュアルの記載を借りれば、「突然かつ自然に発生して終息する失神は、典型的には心原性の失神であり、最も頻度の高い原因は不整脈」——と明記されています。
今回のご主人は、まさにこの「典型的な心原性失神」のパターンでした。
- 座って普通にテレビを見ていた
- 「気持ち悪い」「クラッと来る」といった警告症状はゼロ
- 数秒で目を覚まし、目覚めた直後から会話も見当識も完全に正常
- 現場で触れた脈が遅く、リズムが乱れていた
心原性失神は、ほかの原因による失神と比べて、その後の予後が悪いことが知られています。日本の複数の医療機関の解説でも、「心原性失神は再発率が高く、放置すると年単位で見て高い死亡率につながる」と警告されています(新百合ヶ丘総合病院・失神…実は心臓の病気が原因のことも)。
つまり——「大丈夫そうに見える」の裏側で、次に倒れたときが命取りになる可能性があるということです。
危険な失神を見分ける5つのサイン(CHESSルール)

海外では、救急外来で失神患者を診るときの有名な評価ツールがあります。**サンフランシスコ失神ルール(CHESSルール)**と呼ばれるものです(HOKUTO・サンフランシスコ失神ルール(CHESS)計算機)。
次の5つのうちひとつでも当てはまれば、入院しての観察が推奨されるという基準です。
| 頭文字 | 意味 | チェックポイント |
|---|---|---|
| C | Congestive heart failure | 心不全の既往がある |
| H | Hematocrit < 30% | ヘマトクリット(貧血の指標)が低い |
| E | ECG異常 | 心電図に異常がある |
| S | Shortness of breath | 息切れがある |
| S | Systolic BP < 90 | 収縮期血圧が90未満 |
外部検証で感度がやや下がるという批判はあるものの、現場で「これは危ない失神か」を素早く見極めるチェックリストとして今も使われています。
さらに、家族の目線で「これは危ない」と判断するためのサインを、私は現場で次のように整理して伝えています。
家族が覚えておきたい「危ない失神」の5つのサイン
- 警告なく、突然倒れた(気持ち悪い・冷や汗などの前ぶれがゼロ)
- 横になっている・座っている姿勢で倒れた(立ちくらみでは説明がつかない)
- 運動中・階段の上り下り・力仕事の途中で倒れた(労作時失神)
- 倒れて頭・顔・歯などをぶつけた(防御反応が働かないほど急だった証拠)
- 胸痛・動悸・息切れを伴った、または家族に若くして突然亡くなった人がいる
ひとつでも当てはまれば、「もう戻ったから大丈夫」ではなく、その場で119番か、救急外来受診を強く考えるレベルです。
今回のご主人は、①(警告症状なし)と②(座って倒れた)、それに③に近い脈の乱れ——3つが当てはまっていました。








