ある夏の朝、住宅から119番通報が入りました。
通報内容は「同居している母の様子がおかしい」。到着すると、80代の女性が居間の椅子に浅く腰かけていました。目は開いています。呼びかければ、こちらを見ます。ただ、返ってくる言葉が続きません。名前を聞くと、少し間があって、途中で止まってしまう。手足が動かないわけでもない。けれど、いつもの受け答えではない——ご家族はそう言いました。
そのご家族が、私たちが玄関に入るより先に、こう言いました。
「脈が、なんだか遅い気がして」
「脈が遅い気がする」という一言が、この日いちばん役に立った情報でした(写真はイメージです)
この記事は、その一言について書きます。
はじめにお伝えしておきます。この記事は「脈を測れば病気がわかる」という話ではありません。むしろ逆です。**脈を測っても、家庭では何もわかりません。**わからないまま、それでも数えておいてほしい——という、少し変わったお願いの記事です。
主な出典は、総務省消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』(令和7年12月発行)、『救急蘇生法の指針2025(市民用)』、国立循環器病研究センターの一般向け解説「不整脈」および「失神(気絶)外来」、日本救急医学会の医学用語解説集、日本脳卒中協会・日本不整脈心電学会による「心房細動週間」のページです。どれも誰でも読める公開資料です。
先に、3つだけ
長い記事になるので、先に結論を置きます。
- 救急車を呼ぶ判断に、脈の数字は要りません。消防庁のリーフレット全9ページに、「脈」という言葉は1か所も出てきません。呼ぶ理由は「意識がおかしい」だけで足ります。
- **それでも、症状が出ているそのときの脈は、あとから誰にも取り戻せない情報になります。**国立循環器病研究センターは、治療方針を決めるのは「症状が起こったときの脈の証拠」だと書いています。
- **数えてはいけない場面があります。**反応がなく、普段どおりの呼吸もないとき。このときは脈を探さず、ただちに胸骨圧迫です。国の手順に、脈を確認する工程はありません。
以下、ひとつずつ、原文を見ていきます。
いつもの居間で、いつもと違う受け答えが返ってきた朝(写真はイメージです)
① 呼ぶ理由に、脈は入っていません
まず、いちばん大事なところから。
総務省消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』は、「ためらわず救急車を呼んでほしい症状」を、高齢者・おとな・こどもの3ページに分けて並べています。この記事の事案にあてはまるのは、高齢者ページの「意識の障害」の欄です。原文はこうです。
意識がない(返事がない)またはおかしい(もうろうとしている)
そして同じページの「顔」の欄には、こうあります。
ろれつがまわりにくい
さらに、高齢者ページの冒頭にはこう書かれています。
高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう
ここで、私が皆さんに気づいてほしいことがあります。
このリーフレット全9ページを通して、「脈」という言葉は1か所も出てきません。「脈拍」も「不整脈」も「心臓」も「血圧」も、ひとつも出てきません。「119番通報をしたら」のページで通信指令員が尋ねる内容としても、書かれているのは「分かる範囲で意識、呼吸の有無を伝えてください」であって、脈ではありません。
つまり、**国は「脈が◯回以下だから救急車」という線引きをしていません。**呼ぶかどうかを決める材料は、あくまで見た目と、返事と、呼吸です。
これは裏を返すと、こういうことです。
**脈を数えられなかったからといって、何ひとつ悪いことはありません。**測り方がわからなくても、うまく触れなくても、時計が見当たらなくても、119番通報は成立します。「意識がおかしい」——それだけで、呼ぶ理由としては十分です。
だからこの記事は、「脈を測ってから呼ぶかどうか決めましょう」という話ではありません。
呼ぶのが先。数えるのは、そのあとです。
② それでも脈を数えてほしい、たったひとつの理由
では、なぜ数えてほしいのか。
国立循環器病研究センターの一般向け解説「不整脈」に、その答えがはっきり書かれています。ペースメーカーの項です。
ペースメーカーは洞不全症候群や房室ブロックのような徐脈が生じる人に植え込まれますが、それが本当に必要なのは、徐脈により失神やふらつきなどの症状が起こったという証拠が心電図などでとらえられている人です。
続けて、こうあります。
なぜかといいますと、一般にめまいやふらつきはお年寄りには起こりやすく、一時的に血圧が低下した場合や、貧血でも生じるからです。したがって意識を失ったり、ふらついたりした時に脈が遅い(一般には毎分40回以下)、または止まっているという証拠がなければ、必要もないのにペースメーカーを入れることになりかねません(この場合はペースメーカーを入れても症状はよくならないのです)。
ここが、この記事のいちばん大事なところです。
**「症状が出ているとき」と「脈が遅いとき」が同じ時刻だった、という証拠。**これが治療方針を分けます。
そして、その証拠がいちばん取りにくいのは、まさに症状が出ている、そのときの家の中です。
病院に着いた頃には、脈が戻っていることがあります。症状も消えていることがあります。そうなると、心電図をとっても「今は正常です」としか出ません。だから病院は、24時間つけっぱなしにする心電図や、もっと長い期間つける機械を使って、もう一度その瞬間が来るのを待つことになります。
でも、その瞬間は、すでに一度、家の中で起きているのです。
そこに居合わせたのは、ご家族だけです。
医療者は、その時刻には、まだ誰もそこにいません。
病院で調べられるのは「今の脈」だけ。「あのときの脈」を知っているのは、そばにいた人だけです(写真はイメージです)
③ 数字の目盛りだけ、置いておきます
数える以上、目盛りがないと数えようがないので、公的な数字だけ置いておきます。同じ国立循環器病研究センターの「不整脈」からです。
不整脈とは、脈がゆっくり打つ、速く打つ、または不規則に打つ状態を指し、脈が1分間に50以下の場合を徐脈、100以上の場合を頻脈といいます。
一般に脈拍が1分間に40以下になると、徐脈による息切れや、めまいなどの症状が出やすくなります。
整理すると、こうなります。
- 1分間に50以下:徐脈(じょみゃく)
- 1分間に100以上:頻脈(ひんみゃく)
- 1分間に40以下:息切れやめまいなどの症状が出やすくなる
ここで、強くお願いがあります。
この数字を、救急車を呼ぶかどうかの判断に使わないでください。
同じページに、こうも書かれているからです。
一方、脈が毎分30回くらいしかなくても、その時に症状がなければ、必ずしもペースメーカーは必要ないともいえます。
つまり、**脈が30でも治療が要らない人がいて、脈が正常でも危ない人がいます。**数字だけでは、何も決まりません。決めるのは医師であって、家族でも、救急隊でもありません。
だからこの目盛りは、**「危ないかどうかを決めるため」ではなく、「あとで伝えるときに、言葉が数字になるため」**にだけ使ってください。
「なんだか遅かったです」より、「15秒で10回でした。1分だと40くらいです」のほうが、はるかに役に立ちます。
④ 脈のとりかた——学会が公開している方法
「脈のとりかた」を、公的な団体が図解つきで公開しています。日本脳卒中協会と日本不整脈心電学会が共同で運営する「心房細動週間」のページです。原文を引用します。
片側の手首を外側に回して少し手の平を返します。 手首を少し上げて、しわを確認しましょう。 しわの位置に薬指の先がくるように、人差し指、中指、薬指の3本を当てます。そして、親指のつけ根の骨の内側で、脈がよく触れるところを見つけましょう。 この時、指先を少し立てると脈が分かりやすいでしょう。 15秒ぐらい脈拍を触れて、間隔が規則的かどうか、確かめてください。
ポイントを、私なりに補足します。
- **親指は使いません。**人差し指・中指・薬指の3本です
- 手首のしわの位置に薬指を置いて、親指側の骨の内側を探します
- 15秒——これが学会の示す時間です
なお、このページが15秒みることを勧めているのは、心房細動を見つけるために「間隔が規則的かどうか」を確かめる目的です。回数を数えることが目的とは書かれていません。ただ、指を当てて15秒みるという行為そのものは同じですから、そのあいだに何回打ったかを一緒に数えておけばいい——というのが、私からのお願いです。15秒の回数を4倍すれば、1分あたりの数になります。
秒針のある時計でも、スマートフォンのストップウォッチでも構いません。正確でなくていいので、数字にして、時刻と一緒に覚えておいてください。
ストップウォッチは要りません。秒がわかるものが、ひとつあれば足ります(写真はイメージです)
血圧計やスマートウォッチの数字はどう扱うか
ご家庭に上腕式の血圧計があれば、多くの機種が脈拍の数字も一緒に表示します。腕時計型の機器で心拍数が出ることもあります。
これらの数字も、時刻と一緒にメモしておいてください。
ただし、機器が出した数字が正しいかどうかを、私たちは現場で保証できません。脈が乱れているときは、機器の表示が実際と食い違うことがあります。だからこれも、判断の材料ではなく、記録として扱ってください。「機械ではこう出ていました」と、そのまま伝えていただければ十分です。
機器の数字も「記録」としては役に立ちます。正しいかどうかは、病院が判断します(写真はイメージです)
⑤「アダムス・ストークス症候群」という名前
ここで、ひとつだけ名前を紹介します。あまり知られていない言葉ですが、脈の話をするなら避けて通れないものです。
日本救急医学会の医学用語解説集に、こうあります。
不整脈により心拍出量の急激な低下をきたし,それにともなう脳血流減少によりめまい,意識消失(失神),痙攣などの一過性の脳虚血症状を引きおこした病態をさす。
読み下すと、こういうことです。心臓のリズムが乱れる → 送り出す血液の量が急に減る → 脳に届く血が減る → めまい・意識が飛ぶ・けいれん、という順番で起こる状態です。
つまり、症状が出るのは脳ですが、原因は心臓にあります。
国立循環器病研究センターの「不整脈」には、時間の目安が書かれています。
一般に数秒以上心臓が停止するとふらつきが起こり、10秒以上停止すると意識がなくなって倒れる(アダム・ストークス発作)ことがあります。
同じ用語解説集は、「失神」の項でこう書いています。
例えば,起立性低血圧や迷走神経反射(排尿失神など),Adams-Stokes発作などがある。
ここで、はっきり申し上げておきます。
**この名前を、ご家族が使えるようになる必要はまったくありません。**現場でこの言葉を口にするのは医師と救急隊であって、通報時にこの単語を言う必要はありません。
それでも紹介したのは、**「脳の症状に見えても、原因が心臓側にあることがある」**という一点だけ、頭の片隅に置いておいてほしいからです。そしてそれこそが、脈という数字が意味を持つ理由です。
⑥ 数えてはいけないとき
ここが、この記事でいちばん大事な安全上の注意です。
『救急蘇生法の指針2025(市民用)』が示す、市民が心停止を判断する手順を確認します。順番はこうです。
- 周囲の安全を確認する
- 反応を確認する
- 119番通報をしてAEDを手配する
- 普段どおりの呼吸があるか確認する
- 胸骨圧迫を行う
お気づきでしょうか。この5段階のどこにも、脈を確認する工程はありません。
指針は、呼吸の確認についてこう書いています。
傷病者の上半身を見て、10秒以内で胸と腹の動き(呼吸をするたびに上がったり下がったりする)を観察します。
そして、こう続きます。
突然の心停止の直後にはしゃくりあげるような途切れ途切れの呼吸がみられることも少なくありません。これは「死戦期呼吸」と呼ばれるものであり、「普段どおりの呼吸」ではありません。ただちに胸骨圧迫を開始してください。
判断に迷うときについても、指針はこう明記しています。
普段どおりの呼吸がないとき、普段どおりの呼吸かどうか判断に迷うときは、ただちに胸骨圧迫から心肺蘇生を開始することを強調しています。
ですから、線引きはこうなります。
- 反応があって、呼吸もある → 落ち着いて脈を数える意味があります
- 反応がない/判断に迷う。普段どおりの呼吸もない/判断に迷う → **脈を探さないでください。**ただちに胸骨圧迫です
脈を探している時間は、胸骨圧迫が始まらない時間です。この場面では、脈は数えるものではなく、無視するものです。
なお、指針は「反応はないが普段どおりの呼吸をしている場合」についても書いています。その場合は、体を横向きに寝かせた姿勢にして、様子をみながら救急隊の到着を待ちます。そして「とくに呼吸に注意して、呼吸をしなくなったり、呼吸が普段どおりではなくなった場合には、心臓が止まったとみなして、ただちに胸骨圧迫を開始してください」——見ているのは、ここでも脈ではなく呼吸です。
時刻と数字。この2つだけ書ければ、十分です(写真はイメージです)
飲んでいる薬そのものが、脈の遅さの理由になっていることがあります(写真はイメージです)
見分けてから呼ぶのではありません。呼んでから、数えるのです(写真はイメージです)
救急車が着くまでのあいだにできることは、思っているより多くありません。でも、ゼロでもありません(写真はイメージです)
何ごともなく、いつもの朝に戻れること。そのための備えです(写真はイメージです)

