ある夏の月曜の夜、18時台。「お腹が痛くてどうにもならない」という119番通報で、私たちは住宅街の一軒家へ向かいました。
そして現場での観察と話し合いのすえ、救急隊は傷病者を乗せずに、その家をあとにしました。
救急車が来ても、病院に運ばずに引き揚げることがあります(写真はイメージです)
これは失敗でも、門前払いでもありません。救急の現場では**「不搬送(ふはんそう)」**と呼ばれる、決してめずらしくない結末です。
けれど呼んだ家族にとっては、こんな不安が残ります。「呼んだのは間違いだったのだろうか」「このあと悪くなったら、また呼んでいいのだろうか」。
この記事では、実際の事案をもとに、不搬送はなぜ起きるのか、そして救急隊が帰ったあとに家族がすべきことをお伝えします。
「不搬送」とは何か
不搬送とは、119番通報を受けて救急隊が出動したものの、傷病者を医療機関へ搬送しないまま活動を終えることを指します。
総務省消防庁の「令和7年版 救急・救助の現況」では、不搬送を「傷病者又はその関係者が搬送を拒んだ場合や明らかに死亡している場合又は医師が死亡していると診断した場合に医療機関等へ搬送しないもの」と定義しています。
そして、**令和6年中の救急自動車による救急出動件数771万8,380件のうち、不搬送は98万67件で全体の12.7%**でした。
救急隊が玄関から引き揚げる——それも救急活動のひとつの結末です
およそ8件に1件です。決してめずらしいことではなく、現場では日常的に起きています。
大切なのは、不搬送は「呼んだ人の判断ミス」を意味しないということです。多くは、救急隊が現場で観察し、本人・家族と話し合った結果として選ばれる結論のひとつです。
事案の経過——夏の月曜夜、40代女性の腹痛
時刻:夏の月曜の夜、18時台 場所:自宅 通報内容:腹痛が強く、動けない
到着したとき、その方は痛みで動きづらそうにしていましたが、意識ははっきりしていて、こちらの質問にきちんと答えられる状態でした。
観察した内容:
- 意識:JCS 0(清明)
- 呼吸:20回/分
- 脈拍:70回/分・整
- 血圧:152/89 mmHg
- SpO2:98%
- 体温:37.0℃
- 心電図:洞調律(Sinus)
意識がはっきりしていても、腹痛は原因の幅が非常に広い症状です
訴えていた症状:
- 夕方16時ごろからの、お腹全体の痛み
- 痛みは波がある間欠的な痛み(ずっと同じ強さではない)
- お腹が張って隆起している感じがある
- ここ数日、便通がよくない
腹痛の原因は、胃腸炎のような比較的軽いものから、腸閉塞・虫垂炎・胆石・膵炎、さらには血管系の緊急疾患まで、非常に幅が広いのが特徴です。バイタルサインだけで「大丈夫」と言い切れる症状ではありません。
なぜ搬送しない結論になったのか
この方にはもともと通院中の持病があり、腹部の症状についても大学病院で継続的にフォローを受けているという背景がありました。今回の痛みも、これまで経験してきた症状と大きく違うものではない、という本人の説明もありました。
バイタルサインは安定しており、意識も清明。腹部を診ても、押したときに板のように硬くなる筋性防御や、手を離したときに強く響く反跳痛といった、腹膜炎を強く疑わせる所見は認められませんでした。
現場での話し合いと、そのあとの受診はひと続きです
そこで救急隊は、本人・ご家族と一緒に次の点を確認しました。
- いま緊急で命に関わる状態を示す所見はないこと
- ただし腹痛の原因は現場では確定できないこと
- かかりつけの大学病院に経過が残っているため、そこで診てもらうのが最も適切であること
- 悪化のサインが出たらためらわず再度119番してよいこと
話し合いの結果、この日は搬送せず、翌日にかかりつけを受診するという方針で本人・ご家族と合意し、救急隊は引き揚げました。これが「不搬送」です。
ここで大事なのは、搬送しないことを救急隊が一方的に決めるわけではないという点です。搬送は本人(または家族)の同意があって成り立つもので、今回も「話し合って合意した」結果としての不搬送でした。
不搬送が起きる主なパターン
消防庁が定める救急活動記録の様式では、不搬送の理由が**「緊急性なし」「傷病者なし」「拒否」「酩酊」「死亡」「現場処置」「誤報・いたずら」「その他」の8区分**で記録されます(各区分が全国でどれくらいの割合かは公表されていません)。
家族の目線でよく出会うのは、次のようなケースです。
1. 本人・家族が搬送を辞退した(拒否) 救急隊が搬送を勧めても、本人が「行きたくない」と判断することがあります。意思決定ができる状態であれば、その意思は尊重されます。今回の事案も、話し合いの結果として本人・家族が「今日は受診しない」と選んだため、ここに含まれます。
2. 現場での観察・処置で状態が落ち着いた(現場処置) 低血糖への対応後や、けいれんが止まって意識が戻ったあとなど、現場で状態が改善し、本人が受診を希望しないケースです。
3. かかりつけでの対応が適切と判断された 経過を把握している医療機関がある場合、そちらで診てもらうほうが結果的に早くて正確なことがあります。今回の背景にあったのがこの考え方です。
4. 明らかな死亡で警察へ引き継いだ(死亡) 社会通念上明らかに死亡していると判断される場合、搬送ではなく警察への引き継ぎとなります。高齢者の入浴事故の記事で紹介した事案がこのパターンでした。
5. 現場に傷病者がいなかった(傷病者なし) 通報後に本人が移動していた、別の車で病院へ向かっていた、といったケースです。
不搬送は「呼ばなくてよかった」という意味ではありません
「呼んだのは間違いだった」と思わないでほしい
救急隊が引き揚げたあと、通報した家族から「すみません、大したことなくて……」と謝られることが本当に多いのです。
けれど、呼ぶかどうかを迷った時点で、あなたはすでに「いつもと違う」を感じ取っています。その感覚は現場でとても大事な情報です。
消防庁が配布している『救急車を上手に使いましょう』という冊子には、「ためらわず救急車を呼んでほしい症状」という一覧が載っています。そこに挙げられた具体的な症状のあとには、こう書かれています。
◎その他、いつもと違う場合、様子がおかしい場合◎ 高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう。
つまり、リストに載っていなくても「いつもと違う」なら呼んでよい、というのが公的な案内なのです。
もうひとつ知っておいてほしいことがあります。「救急車で運ばれた人の多くは軽症だった」という話をよく耳にしますが、消防庁の資料には、この「軽症」について次の注記があります。
傷病程度は入院加療の必要程度を基準に区分しているため、軽症の中には早期に病院での治療が必要だったものや、通院による治療が必要だったものも含まれる
「軽症=呼ばなくてよかった」ではないことを、消防庁自身が明記しているわけです。「呼んで搬送されなかった」ことより、「呼ばずに手遅れになった」ことのほうが、現場では圧倒的に取り返しがつきません。
私たち救急隊も、不搬送で終わった現場を「無駄足」とは考えていません。その場で観察し、危険なサインがないことを確認し、次の受診につなげること自体が救急活動だからです。
不搬送のあとは「かかりつけ受診」までが一続きの対応です
記録は、翌日の診察で医師が判断する材料になります
そばに誰かがいることが、次の異変に気づく力になります
相談先を平時に調べておくことが、夜中の迷いを減らします
不搬送は「様子を見る」ではなく、「次につなげる」ための結論です

