「夫が……起き上がれないんです。声をかけても、なんか……変で」
119番に入電したのは、朝8時を少し回ったころだった。
電話口の妻の声は、焦っているというよりも——何を言えばいいのか分からない、そんな戸惑いだった。
「意識はありますか」と問い直すと、少し間があった。
「……あるとは思うんですが。目は開いているんですけど、名前を呼んでも返事がなくて」
その時点で、私の中で動き始めていた。
現場——薄い汗と、白い顔
到着すると、70代の男性が寝室のベッドに横たわっていた。
目は半分開いている。でも、焦点が合っていない。呼びかけに対して、まぶたがわずかに動く。それだけだ。
顔が白い。そして——触れた皮膚に、薄い汗が滲んでいた。
寝室に入ったとき、ベッドサイドのテーブルに視線が行った。インスリン注射のペン型器具。使用済みのキャップが外れたまま置いてある。
「インスリン、打っていますか」
妻は、うなずいた。
「昨夜も打ちました。……でも今朝は、食欲がないって言って、朝ごはんほとんど食べなくて」
私は現場でその事実を記録した。
インスリン注射あり。朝食なし。
これだけで、「低血糖」の可能性は十分に高い。
「目は開いているのに、返事がない」——その状態が、何を意味するのか
バイタルが語っていたこと
搬送前に確認したバイタルサインはこうだった。
| 項目 | 値 | 目安 |
|---|---|---|
| 意識 | JCS 10(呼びかけで開眼するが応答なし) | 正常はJCS 0(清明) |
| 血圧 | 116/70 mmHg | ほぼ正常範囲 |
| 脈拍 | 110回/分 | やや速い |
| 体温 | 36.5℃ | 正常 |
| SpO2 | 97% | 正常 |
| 呼吸数 | 16回/分 | 正常 |
バイタルだけを見れば、「脈が少し速いこと以外は正常」だ。
だが私たちは数字だけを見ているわけではない。意識障害の状態と、インスリン注射+朝食なし、という組み合わせが、一つの仮説に向けて収束していた。
現場で血糖測定をした。
血糖値:44 mg/dL
正常は空腹時で70〜110 mg/dL前後。44は、明らかに低い。
日本糖尿病学会は、血糖値70 mg/dL未満を「低血糖」の目安とし、自力で回復できないほどの状態を「重症低血糖」と定義している。この方の状態は、その定義に当てはまる。
搬送先の病院では、ブドウ糖の点滴が行われた。数分後、男性は自分の名前を言えるようになっていた。
意識が戻るのを見て、妻は声を上げて泣いた。
現場での血糖測定は、診断の入り口ではなく「動く理由の確認」だ
低血糖とは——なぜ意識を失うのか
糖尿病の治療に使うインスリンや特定の飲み薬は、血糖を下げる力が強い。これは当然のことで、治療の目的はそこにある。
だが、食事量が減る・食事を抜く・運動量が多いなどの状況では、薬の効き目が食事から得られるエネルギーを上回ってしまうことがある。
その結果、血糖値が過度に低下する。これが「低血糖」だ。
脳は、活動するためのエネルギー源としてほぼ血糖(グルコース)だけに依存している。肝臓や筋肉と違い、脂肪や蛋白質を代替エネルギーとしてすぐには使えない。
だから、血糖が一定水準を下回ると、脳は最初に警告を出す——発汗、手の震え、動悸、空腹感。これが「軽症低血糖」だ。本人が気づいて、ジュースや飴で対処できる段階。
さらに血糖が下がると、ぼんやりする、言動がおかしくなる、呼びかけに反応しない。脳が正常に機能しなくなる段階。これが「重症低血糖」で、今回の方がまさにここにいた。
ここから先は、本人が自力で対処できない。誰かが助けなければ、意識がさらに落ちる。
なぜ夏に多いのか
この方の妻は、翌日こう話していた。
「夏は食が細くなるんです。この一週間、食べる量がいつもより少なかったと思います。でも、インスリンは毎晩打ってて」
ここに、夏の低血糖の落とし穴がある。
インスリンは、量を変えなければ同じだけ血糖を下げる。だが、食事から取り込む糖の量が減れば、同じ量のインスリンが「多すぎる」状態になる。
夏は、高齢の方を中心に、食欲が落ちやすい季節だ。
- 暑さによる消化機能の低下
- 脱水傾向による食欲減退
- 外出が減り、食事の質・量が落ちやすい
にもかかわらず、薬は「いつも通り」飲んでしまう。食事を抜いてもインスリンを打ってしまう。
これが夏の低血糖が起きやすい構造だ。
日本糖尿病学会は、患者向け資料の中で「食事ができないときはインスリン量や服薬について主治医に相談を」と明確に呼びかけている。だが実際の現場では、「いつも通り打てばいい」という習慣が定着してしまっているケースが少なくない。
食欲が落ちたとき、薬をどうするか——これを事前に主治医と決めておくことが、予防の核心だ。
軽症と重症を分ける分岐点
低血糖には「本人が気づける段階」と「気づけない段階」がある。
本人が気づける段階(軽症低血糖):
- 冷や汗が出る
- 手足が震える
- 動悸がする
- 強い空腹感
- 顔色が悪い
この段階なら、意識がある状態でブドウ糖・砂糖・ジュースを摂取することで、本人が回復できる。日本糖尿病学会は、軽症低血糖に対してブドウ糖10〜20gの摂取を推奨している(コーラ150mL、砂糖小さじ4杯程度が目安として挙げられている)。
本人が気づけない段階(重症低血糖):
- 呼びかけに反応しない・返事がない
- ぼんやりして会話がかみ合わない
- 動きがおかしい、ろれつが回らない
- 意識を失っている
この段階では、本人は助けを求めることができない。気づけるのは周りにいる人だけだ。
そして最も重要な点がある。
重症低血糖で意識がない人に、口から飲ませることは絶対にしてはいけない。
砂糖水を飲ませようとしたり、ジュースを注ごうとしたりする行為は、誤嚥を引き起こす危険がある。意識のない人は、自力で飲み込む力がない。気管に液体が入れば、新たな命の危機になる。
やるべきことは一つ——119番だ。
病院でブドウ糖の点滴を受ければ、今回のように数分で意識が戻ることが多い。低血糖の回復は、正しく対処すれば劇的に早い。だからこそ、誤った対処で時間を無駄にしないことが大事なのだ。
「どうしよう」と迷った5分より、「119番に電話した」1分が、命を変える
病院で点滴を受けて意識が戻るまで、ほんの数分だった。その数分を、早く届けること

