この記事は、特定のどなたかの事案の話ではありません。典型的な形としては——「今日、何するんだっけ」と聞かれる。答える。少しして、また同じことを聞かれる。もう一度答える。また聞かれる。
同じ質問が三度目になったところで、家族は手が止まります(イメージ写真です)
本人は、自分の名前も、目の前にいるのが誰かも分かっています。言葉もはっきりしている。歩けるし、受け答えもできる。
だから家族は「疲れているのかな」「急にボケたのか」と考えます。そして数時間のうちに、何事もなかったように元に戻る。戻れば、受診する理由がなくなったように見えます。
この記事は、戻ったことは受診しない理由にならないという話です。
何度も同じことを聞く——その傷病名は「一過性全健忘」です
一過性全健忘(いっかせいぜんけんぼう。新しいことを覚えておけなくなる状態が、突然始まって一時的に続くもの)という傷病名があります。家族が気づくサインは、資料にそのまま書かれています。
患者は不安で用心深くなり、新しいことを覚えられないため、しばしば同じ質問や言い回しを繰り返します。時間や場所について混乱がみられることもありますが、周りの人が誰であるかについて混乱することは通常ありません。記憶に依存しない質問に対してであれば、筋道の通った回答ができます。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
「しばしば同じ質問や言い回しを繰り返します」。そして「筋道の通った回答ができます」。
家族が「おかしい」と思う材料は、繰り返される質問だけ。それ以外は全部ふだんどおりに見えます。
受け答えはできます。だから家族しか気づけません(イメージ写真です)
同じページは、起こりやすい年代も書いています。
一過性全健忘は通常、50~70歳の人に起こります。女性より男性にわずかに多くみられます。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
働いている世代にも起こります。「高齢の親の話」ではありません。
「一過性全健忘」とは——突然始まって、平均6時間で戻る
この病気の形を決めるのは、突然始まることと自然に戻ることの二つです。
記憶障害は平均6時間続き、エピソードの大半が2~12時間続きます。まれに、30分から最長24時間まで続くこともあります。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
平均6時間、短ければ30分。家族が病院に連れて行こうかと迷っている間に終わる長さです。
健忘が終息すれば、混乱はすぐに収まり、完全に回復するのが原則ですが、発症中に起こったことは覚えていない場合があります。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
本人は「何でもなかった」と言います。本当に戻っているので、そう言えてしまう。けれど発症中のことは本人の記憶に残っていません。
きっかけが分からないことが、ほとんどです(イメージ写真です)
きっかけは、冷水や熱湯に浸かること、身体活動、精神的ストレス、痛み、医学的な処置などが挙がりますが、結びはこうです。
ほとんどの場合、誘因は特定できません。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
思い当たる理由がないのが普通です。「心当たりがないから大丈夫」とは読めません。
認知症と同じものではありません
家族がいちばん混同するのが認知症です。分かれ目は始まり方にあります。MSDの比較表は、認知症の発症をこう書いています。
徐々に発生し、いつ始まったかは不明確
(MSDマニュアル家庭版「せん妄と認知症の概要」表「せん妄と認知症の比較」認知症の「発症」)
認知症は、いつ始まったか言えません。一過性全健忘は「今日の午前中から」と時刻で言えます。「いつから」と答えられるかどうかが、資料の上では分かれ目です。
ただし、これは医師が診察で区別することです。家庭でこれを当てはめて、自分で結論を出さないでください。同じことを何度も聞く状態が数週間続いているなら、慢性硬膜下血腫のような、別の待てない病気の側です。
戻っても、その日のうちに——受診判断
総務省消防庁の全国版救急受診アプリ「Q助」を1文字の語幹で検索したところ、「記憶」「物忘れ」「健忘」という入口も項目も見つかりませんでした(「憶」は0件、「忘」は痛みの強さを表す文にしか出てきません)。家族が気づくいちばん具体的なサインに、国は名前をつけていないということです。入るとすれば大人の「意識がおかしい」(A003181)で、その第1項目がこれでした。
1.突然おかしくなりましたか?
(総務省消防庁「全国版救急受診アプリ(Q助)」A003181 項目1)
選ぶと判定は'20'=いますぐ救急車です。この画面は症状16項目で、16項目すべてが'20'。項目4「あばれたり、いつもと違う行動をしたりしていますか?」も同じでした。どれにも当てはまらないと次(A003182)へ進み、9項目のどれかに当たればA003183で65歳以上なら'20'、歩けないも'20'、どちらでもなければ'21'。A003182のどれにも当てはまらないときだけ'23'=様子をみて受診です。
ただし正直に書いておきます。Q助は「今おかしい」ときの道具で、戻ってしまった後の入口はありません。
その日のうちに、付き添って連れて行ってください(イメージ写真です)
では戻った後に受診する理由は何か。診断の付け方です。
通常、一過性全健忘の診断は主に症状に基づいて下されます。突然の健忘のその他の原因を調べるために、以下のような検査も行われます。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
「その他の原因を調べるために」。続く部分には血液検査、尿検査、脳のMRI検査が並びます。てんかん発作との区別は——
側頭葉のけいれん発作は一時的に記憶を損なうため、医師は脳波検査により発作を示唆する脳の異常な電気的活動がないか調べます。
(MSDマニュアル家庭版「一過性全健忘」)
血液も、MRIも、脳波も、家庭にはありません。一過性全健忘は検査で他を外してから付く名前で、戻った時点で分かっているのは「戻った」ということだけです。
MSDマニュアル家庭版「健忘」は、健忘の原因として頭部外傷、脳卒中、けいれん発作、脳の感染症、脳腫瘍などを挙げています。このうち頭部外傷・脳卒中・けいれん発作は、待てません。繰り返しますが、これを家庭で見分けようとしないでください。見分けるために受診します。MSDマニュアル家庭版「記憶障害」は、直ちに受診すべき症状を3つ挙げています。
注意散漫で、非常に混乱しているように見え、集中力がなく、見当識が低下している(せん妄を疑わせる症状)
抑うつを感じ、自分を傷つけたい気持ちになる
神経系の異常を示唆する別の症状、例えば、頭痛、言語の使用や理解の困難、反応の鈍化、視覚障害、めまいなどがある
(MSDマニュアル家庭版「記憶障害」)
頭痛、言葉が出ない、反応が鈍い、見えにくい、めまい。記憶以外のものが一つでも混じっていたら、戻っていても待たない、と読めます。
指針2025とリーフレットでの扱い
日本救急医療財団『救急蘇生法の指針2025(市民用)』全69ページでは、「健忘」「記憶」「物忘れ」「もの忘れ」「せん妄」がいずれも0件でした。「認知症」は誌面16ページの熱中症の項に1回だけで、記憶の話ではありません。射程の外です。ただし「一時的に出て消えた症状」については誌面14ページにあります。
この段階で気がついてただちに病院を受診することができれば、脳梗塞への進展を防げることがあります。
(日本救急医療財団『救急蘇生法の指針2025(市民用)』14ページ「脳卒中の症状」)
これは一過性脳虚血発作の説明で、一過性全健忘の話ではありません。消えた症状について国内の一次資料が「ただちに受診」と書いている例です。
総務省消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』(令和7年10月発行・全8ページ。現物で確認)の誌面4ページ「おとな」にも、記憶や物忘れの欄はありません。当てはまるのは最後の一行だけです。
◎その他、いつもと違う場合、様子がおかしい場合
(総務省消防庁『救急車を上手に使いましょう』4ページ「おとな」)
名前のついた欄はなく、拾えるのは「いつもと違う場合」だけ。気づいた家族の判断が、最後の砦になります。
時刻だけでもメモが残っていると、話が早くなります(イメージ写真です)

