夏の午後、119番が入りました。通報したのは、70代の男性の奥さんでした。
「夫の右手と右足に、力が入らないみたいなんです」
通報を受けた指令員が、続けて聞きました。
「いつからですか」
「……今朝、起きたときからです」
今朝、起きたとき。
その一言を聞いた瞬間、私は時計を見ました。すでに、午後も遅い時間でした。
「起きたときから、右手が言うことをきかない」——この時点で、時計はもう何時間も進んでいます(写真はイメージです)
なぜその瞬間に「まずい」と思ったのか。この記事は、その理由を、中学生の家族が読んでも「そういうことか」となる言葉でまとめたものです。
そもそも脳梗塞ってなに?——「脳の停電」だと思ってください
脳梗塞(のうこうそく)は、脳の血管が詰まって、その先に血が流れなくなる病気です。
家のたとえで言うと、こうなります。
- 脳の血管=家の中を走っている電線
- 血液=電線の中を流れる電気
- 脳の細胞=電気で動く家電
電線のどこか1本が切れると、そこから先の部屋の家電が全部止まります。テレビが消え、冷蔵庫が止まり、電気がつかなくなる。あれと同じことが脳の中で起きます。
「右手が動かなくなった」というのは、右手を動かす担当の家電(脳の細胞)に、電気が届かなくなったということです。左脳の一部分が止まると、体の右側に症状が出ます。
そして、脳の細胞は、家電と違って電気(血液)が届かない時間が長くなるほど、二度と動かなくなっていきます。冷蔵庫は停電が終われば復活しますが、脳の細胞は止まっている時間が長いと戻ってきません。
これが、脳梗塞が「時間の病気」と呼ばれる理由です。
血管を詰まらせる犯人は、多くの場合、**血のかたまり(血栓=けっせん)**です。水道管に例えると、パイプの内側が汚れて狭くなっているところに、ゴミが引っかかって水が流れなくなる——そんなイメージです。汚れが動脈硬化、ゴミが血栓です。
4.5時間ルールとは?——「血のかたまりを溶かす点滴薬」の使える時間
脳梗塞の急性期治療で有名なのが、tPA(ティーピーエー)という薬です。正式にはrt-PA静注療法(アール・ティー・ピーエー じょうちゅう りょうほう)、日本語だと**血栓溶解療法(けっせんようかい りょうほう)**と呼ばれます。
むずかしい名前ですが、やっていることは1つだけです。
血管に詰まった血のかたまりを、点滴で流し込んだ薬で溶かす。
水道管に詰まったゴミを、パイプクリーナーで溶かすようなイメージです。うまく溶ければ、その先にまた血が流れて、脳の細胞が救われます。
ただし、この薬には厳しい時間制限があります。
国立循環器病研究センターは、この治療の対象を「発症してから4.5時間以内」と説明しています。日本脳卒中学会の「静注血栓溶解(rt-PA)療法 適正治療指針 第三版」でも、この4.5時間が基準です。
なぜ4.5時間なのか。ざっくり言えば、これを過ぎてから薬で無理に血を流そうとすると、すでに傷んでいる脳の血管が破れて、逆に脳の中で出血してしまう危険が高くなるからです。効果より危険のほうが大きくなる、その分かれ目が4.5時間、ということです。
いちばん大事なところ——「4.5時間はいつから数えるのか」
ここが今日、家族に持ち帰ってほしい話の中心です。
日本脳卒中学会の指針には、こう書かれています。
治療開始可能時間を計算する上で基準となる発症時刻とは、「患者自身,あるいは症状出現時に目撃した人が報告した時刻」、あるいはこうした情報が得られない場合では「患者が無症状であることが最後に確認された時刻(最終健常確認時刻)」であり、発見された時刻ではない。
そして、こう続きます。
起床時に症状を有していた場合は、就寝前あるいはその途中で無症状であることが確認された時刻となる。
学校のテストでたとえてみます。
朝、目が覚めて右手が動かないことに気づいた。それは「答案用紙を見た時刻」でしかありません。**問題(脳梗塞)が始まったのは、その前の授業中(眠っている間)**のどこかです。時計は、答案を見た瞬間から巻き戻して数えます。
具体例で見ます。
- 夜11時に眠る前は普通だった → 起点は「夜11時」
- 4.5時間後は翌朝3時半
- 朝5時に起きて異変に気づいた時点で、時計はすでに1時間半オーバー
これが、指令を聞いた瞬間に私が緊張した理由です。奥さんは「今朝、起きたとき」と言いましたが、脳梗塞の時計はその何時間も前から動いていた可能性が高い、ということです。
眠っている間は、誰も異変に気づけません。だから「起きたとき」ではなく「眠る前」から時計が動きます
「時間切れ」でも、あきらめないでほしい理由
「じゃあ、寝ている間に起きたら、もう何もできないの?」——ここも、家族に誤解してほしくないところです。
時間切れに見えても、まだできることが2つあります。
1つめは、MRIという画像検査による例外です。
日本脳卒中学会の同じ指針には、こういう推奨があります。
発症時刻が不明な時でも、頭部MRI 拡散強調画像の虚血性変化がFLAIR 画像で明瞭でない場合には発症4.5 時間以内の可能性が高い。このような症例に静注血栓溶解療法を行うことを、考慮しても良い
これはMRIの2種類の写真の写り方のズレから、「これは実は最近詰まったばかりの梗塞らしい」と推測できることがある、という話です。ただし推奨の強さは「考慮しても良い」であって、「打てる」ではありません。打てるかどうかは、あくまで医師が個別に判断します。 家族が「MRIを撮ればいいはず」と主張する場面ではありません。
2つめは、血栓回収療法(けっせん かいしゅう りょうほう)です。
これは、カテーテル(細い管)を足の付け根の血管から入れて、詰まっている脳の血管まで進め、血栓を直接ひっぱり出す治療です。パイプクリーナー(tPA)で溶かすのが間に合わないなら、手を突っ込んでゴミを取り出す、というイメージが近いです。
日本脳卒中学会の「脳卒中治療ガイドライン2021〔改訂2025〕」では、次のようになっています。
- 原則は、発症から6時間以内にできるだけ早く開始する(推奨度A)
- 一定の条件(詰まっている血管の場所、MRIやCTでの画像所見など)がそろえば、最終健常確認時刻から24時間以内まで検討できる(推奨度A)
ここも誤解しないでください。「24時間以内ならいい」ではありません。原則はあくまで6時間で、24時間まで検討できるのは条件が合う一部の患者さんに限られます。
そして、いちばん大事なのは、この一文です。
「4.5時間以内」が強調されるあまり、「4.5時間を過ぎた場合は、専門病院で治療してもあまり意味がない」と誤解され、専門病院への受診を躊躇されることが少なくないようです。
これは国立循環器病研究センターが書いていることです。同センターは続けて「脳梗塞発症4.5時間を過ぎても、専門施設でしっかりとした初期治療を始めることが重要」と述べています。
時計を過ぎていても、受診をあきらめる理由にはならない。 家で「もう遅いから様子を見よう」と決めるのは、いちばん危険な判断です。
「発症時刻がわからない」ときこそ、画像による判断が要になります
現場——意識ははっきりしていて、自分で歩けた
事案に戻ります。
到着すると、男性は自宅の居室にいました。
意識はしっかりしていました。JCS(ジェーシーエス)というのは、意識の落ち方を数字で表す物差しで、0がいちばん元気、数字が大きくなるほど反応が悪くなります。男性はJCS0——こちらの問いかけに、はっきり自分の言葉で答えます。名前も、今日の日付も、そこがどこかも、すべて正確に言えました。
そして、自分で立って、歩くこともできました。
「大丈夫ですよ、歩けますから」
本人は、そう言いました。実際、右腕も上がります。ただ——上げた腕を、そのまま保っていられない。すっと下がってきてしまう。右足も、動くけれど動きが悪い。話しているうちに、言葉が少しもつれる場面もありました。
血圧164/83、脈70前後、SpO2(血液中の酸素濃度)97%、体温36.1℃。
数字の並びだけを見れば、「重症」に見えないかもしれません。呼吸も落ち着いていて、顔色も悪くない。会話もできる。
でも私は、この時点で完全に脳卒中を疑うモードに入っていました。
理由はシンプルで、片側だけがおかしかったからです。
右手だけ、右足だけ、そして時々ろれつが乱れる——左右で違いがある症状は、脳のどこか一部だけが止まっている合図です。両手両足が同じようにだるいなら疲れや脱水も疑えますが、片側だけがおかしいのは、脳が理由でない限りあまり起こりません。
「上がるけれど、保てない」。この差が、家族には見えにくい
奥さんに聞いたこと
私が奥さんに繰り返し確認したのは、症状の細かさではありません。時刻です。
「今朝、起きたときにはもう変だったんですね。何時ごろ起きられましたか」
「5時ごろです」
「その前は。昨夜、寝られるときは、いつもどおりでしたか」
「……はい。何ともなかったです。普通に話して、普通に寝ました」
この「寝る前は何ともなかった」という奥さんの証言が、このあと病院で治療方針を決める材料になります。そばで暮らしている人にしか答えられない質問だからです。
救急隊は、いちばん近い病院に運ぶわけではない
ここは、この記事でいちばん誤解を解いておきたいところです。
一般に「救急車=いちばん近くの病院に運ぶ」と思われがちですが、脳卒中が疑われる場合、私たちはそうしません。
救急隊が向かうのは、脳卒中の治療ができる専門の病院です。
なぜ「近さ」より「専門」なのか
シンプルなたとえで言います。
夜中に子どもが高熱を出したとき、家のすぐそばに「歯医者さん」があっても、そこには行きませんよね。歯医者さんは診てくれる病気の種類が違うからです。
脳卒中も同じで、たとえ隣にクリニックがあっても、そのクリニックがtPA(血栓を溶かす薬)を打てる設備・24時間対応・脳の専門医を持っていなければ、治療そのものが始められません。近くに運んで、そこから改めて別の病院に移すほうが、時間を大きくロスします。
だから、脳梗塞の場合は「近い」ではなく「打てる」病院を選ぶ、というのが救急の考え方です。
「一次脳卒中センター」という仕組み
日本脳卒中学会は、24時間365日、rt-PA静注療法をすぐに始められる病院を、**一次脳卒中センター(PSC=ピーエスシー)**として認定しています。
学会の認定要件には、次のように書かれています。
地域医療機関や救急隊からの要請に対して、24時間365日脳卒中患者を受け入れ、急性期脳卒中診療担当医師が、患者搬入後可及的速やかに診療(rt-PA静注療法を含む)を開始できる
さらに、そのなかでも血栓回収療法まで24時間365日いつでも対応できる病院は、PSCコアとして別に認定されています。
数字で言うと、日本脳卒中学会が認定した一次脳卒中センターは全国で約950施設、そのうちPSCコアは約330施設あります(日本脳卒中学会の公表一覧より、2026-08-09時点で当方が集計。学会は全国合計値を明示していないため、記事では「多数」「約950」といった表現にとどめています)。
救急隊は、地域のルールに従って選んでいる
平成21年に消防法が改正され、都道府県ごとに「傷病者の搬送及び受入れの実施に関する基準」を作ることが義務づけられました。総務省消防庁の検討会報告には、こう書かれています。
生命に直結する脳卒中や心筋梗塞(急性冠症候群)が疑われる場合…救命救急センター、または、傷病者の症状等によっては、専門性が高い二次救急医療機関で対応することについて調整し、体制を構築しておく必要がある
脳卒中については、治療が開始されるまでの時間が、予後に大きく影響を及ぼすため分類することが考えられる。さらに、脳梗塞について、迅速に治療を開始するために、医療資源の状況に応じてt-PA適応疑いを分類することも考えられる
具体的には、消防本部で「脳卒中の疑いあり」と判断された段階で、救急隊は病院前脳卒中スケール(顔・腕・言葉のチェックを現場でやる短い評価)を使って絞り込み、**一次脳卒中センターへまっすぐ搬送する仕組み(Stroke Bypass)**が全国で整備されています。
つまり、119番したあとの病院選びは、救急隊と地域のシステムが担当します。
だから、家族に伝えたいこと
119番したら、家族が「ここに運んでほしい」と病院を指定する必要はありません。
救急隊は、その地域で脳卒中を診られる病院、しかも受け入れ可能な病院を、その場で調整して選びます。かかりつけがある方は「◯◯病院にかかっています」と伝えていただければ参考にしますが、最終的な搬送先の判断は、救急隊が地域のルールに沿って行います。
家に「近い病院」に運ばれなくても、それは間違いではなく、むしろ「打てる病院」を選んだ結果です。ここは信頼して任せてください。
搬送中にできる最大の準備は、病院に渡す「時刻」と「持病」の情報整理です
病院に着いたあと——引き継ぎは救急隊がする、家族は聞かれたら答える
病院に着いてからのことも、少し書いておきます。
病院に到着すると、救急隊が処置室で、医師や看護師に対して、現場からのすべての情報を一括で申し送ります。
- いつ、何時ごろ症状が出たか(または最終健常確認時刻)
- 現場での様子(意識、麻痺の左右、言葉の状態)
- バイタル(血圧・脈・SpO2・体温・血糖の推移)
- 既往歴(過去の病気)、飲んでいる薬
- 家族から聞いた情報
これは救急隊の標準的な仕事で、消防庁の救急活動記録票にも、これらの項目を書き込む欄が最初から用意されています。総務省消防庁の「令和6年版 救急・救助の現況」では、通報から医師に引き継ぐまでにかかった時間の平均が全国で約45.6分と公表されており、「医師への引き継ぎ」は制度上、救急隊の仕事として明確に位置づけられています。
家族は「その場で全部説明する係」ではない
病院に着いた瞬間、家族はとても動揺しています。その動揺のまま、医師に一気に説明する必要はありません。
大まかな流れはこうです。
- 救急隊が、まず医師にひととおり申し送りをする
- 医師が、そのなかで気になる点や不足している点を、家族に追加で聞く
- 家族は、覚えている範囲で、聞かれたことに答える
学校の授業でたとえるなら、先生が代わりに前でノートを発表してくれるようなものです。あなた(家族)は、先生が終わったあと、「あそこはどうだった?」と聞かれたら思い出せる範囲で答えれば十分。最初から全部一人で発表する必要はありません。
とはいえ、家族しか答えられない質問はいくつかあります。
- 「最後に、いつもどおりだったのはいつですか」
- 「持病はありますか」「薬は何を飲んでいますか」
- 「今朝は何時に気づきましたか」
- 「家に届いていた(血栓を溶かす薬に関係する)薬はありませんか」
こうした質問は、救急隊も現場で聞きますが、病院でも改めて確認されます。そばで暮らしていた家族の証言が、そのまま治療方針の材料になります。
答えられないことは「わかりません」で構いません。あいまいに「たぶん」で答えるより、「わからない」のほうが医師の役に立ちます。
通報のとき、「いつから」と同じくらい「その前はいつまで大丈夫だったか」が大事です
家族が握っている、いちばん重要な情報
それは、繰り返しますが、**「最後に、いつもどおりだったのはいつか」**です。
救急隊も、病院の医師も、この情報を自力では手に入れられません。本人が眠っている間の様子を知っているのは、そばにいた家族だけです。
日本脳卒中学会が監修し、日本脳卒中協会が協力した市民向け資料には、確認すべき時刻が3つ、はっきり書かれています。
- 発症した(本人の症状が出現した)時刻
- 発見した(周りの人が症状を見つけた)時刻
- 最後に無事(何事も普段どおり)だった時刻
家族が答えられるようにしておくのは、この3つです。とくに3つ目——「最後に無事だった時刻」が、起床時発症では決定的になります。
「昨夜10時に一緒にテレビを見ていたときは普通でした」「夜中2時にトイレに起きたときは、普通に歩いていました」——こうした一言が、時間枠の計算を大きく変えることがあります。夜中に一度でも受け答えができていたなら、それは起点が後ろにずれるという意味を持ちます。
顔の左右差、口角の下がり、笑ったときのゆがみ。家族なら気づけるサインです
血圧と血糖の管理は、「いつか」ではなく今日の予防そのものです
脳梗塞は「時間の病気」です。数えるのは、目が覚めた時刻ではありません
いちばん近くにいる人だけが、「昨夜までは何ともなかった」と証言できます

