夏のある土曜の朝、娘さんから119番が入った。

「母が……起きられないんです。手も足も、力が入らないみたいで」

「いつからですか?」

「……昨日の夜から、何か変だなとは思っていたんですが」

昨日から。

その一言で、私は緊張した。

時計を見た。午前7時過ぎ。

脳梗塞のゴールデンタイムは発症から4.5時間。「昨日から」というのは、もうその窓が閉じている可能性がある。

私は現役救命士として、この事案から家族に知っておいてほしいことを書きます。

朝の自室で横になったままの高齢女性のイメージ 「起きられない」——その言葉が朝届いたとき、すでに時間との戦いが始まっている


「昨日から少し変だった」——娘から聞いた経緯

現場は、ある住宅の一室だった。

80代の女性がベッドに横になっていた。

娘さんが状況を教えてくれた。

「昨日の夕方頃から、なんとなく元気がなくて。夜、『体がだるい』と言ったんですが、疲れかな、と思って。今朝、声をかけても起きてこないので部屋に行ったら、力が入らないと言って……それで、あわてて電話しました」

「昨日のうちに、手や足に力が入らないとか、ろれつが回らないとか、そういう様子はありましたか?」

しばらく間があった。

「……今思えば、夕食のとき、お箸をうまく持てていなかったような気がします」

夕食のとき。

それは昨日の夕方——今から約15時間前のことだった。

日本の家庭、ベッドサイドで心配そうにする家族のイメージ 娘さんは「様子を見よう」と思っていた。その判断を責めることはできない。でも、脳はその間も変化し続けていた


現場で確認した意識・体の状態

接触直後、意識の確認から始めた。

「〇〇さん、わかりますか?」

目が薄く開いた。でも、焦点が定まらない。名前を呼ぶと反応するが、「ここはどこですか?」という問いには答えられなかった。

現場バイタル(接触時)

項目 数値 評価
意識レベル(JCS) I-2(見当識障害あり——時・人・場所がわからない) 意識障害あり
呼吸 22回/分 やや速め
82回/分 正常範囲
血圧 176/98mmHg 高い
酸素飽和度(SpO2) 96% 正常低め
体温 36.7℃ 正常

そして、四肢(手足)の確認をした。

「手を上げてみてください」

右腕は動かなかった。左腕もほとんど上がらない。

「足を上げてみてください」

両足とも、ベッドから持ち上げることができなかった。

四肢すべてに脱力がある。

これは右半身だけの脱力(片麻痺)とは異なる所見だった。脳幹や広範囲の血流障害が疑われる。

搬送中に意識レベルはさらに低下した。JCS II-30まで悪化——呼びかけには反応しなくなり、体を大きく揺するような強い刺激でようやく反応する状態になった。

病院のモニター機器と医療スタッフのイメージ 搬送中に意識が低下した。バイタルサインの変化は、脳の血流が刻々と変化していることを示していた


脳梗塞のゴールデンタイム——4.5時間という意味

脳梗塞は、脳の血管が詰まり、血流が途絶えることで起こります。

血流が止まると、神経細胞は1分間に約190万個が死ぬとされています(米国神経学会の推計)。

だからこそ、脳梗塞の治療では「Time is Brain(時間が脳だ)」と言われます。

現在、脳梗塞の急性期治療には大きく2つあります。

t-PA(血栓溶解療法):血栓を溶かす薬を点滴で投与する。発症から4.5時間以内に行う必要がある(日本脳卒中学会 2021年ガイドライン)。

機械的血栓回収療法:カテーテルで血栓を直接取り除く手術。t-PAより時間の幅があるが、適応は厳密に判断される。

ここに、重大なルールがあります。

「いつ発症したかわからない」場合、t-PAは原則として投与できません。

今回の女性は「昨日の夕方から変だった」。

医師にとって、これは「最低でも15時間前に発症した可能性がある」を意味します。

4.5時間の治療窓はとうに閉じていた。


「一晩様子を見た」がもたらすリスク

家族を責めているのではありません。

「夕方から変だな」→「夜には少し落ち着いた気がする」→「明日も続くようなら受診しよう」

この流れは、ごく自然な思考です。

でも、脳卒中には「一時的に症状が改善する」タイプがあります。

**TIA(一過性脳虚血発作)**と呼ばれるもので、脳への血流が短時間途絶えることで、手足の脱力や言語障害が出るものの、数分〜数時間で自然に改善するケースがあります。

「治った」のではなく「一時的に戻っただけ」——そして、その後に本格的な脳梗塞を起こすリスクがあることが知られています。

「夜には良くなった気がした」——その感覚を、体が一時的に警告を引っ込めただけ、と受け取ってほしいのです。

一晩様子を見た結果、発症時刻が「不明」になり、治療の選択肢が大きく狭まる

これが、一晩の様子見がもたらす最大のリスクです。


FAST:今すぐできる脳卒中サインの確認

脳卒中のサインを素早く確認する方法として「FAST(ファスト)」があります(米国心臓協会・AHA推奨)。

F(Face / 顔):片側の顔が下がる・笑えない →「ちょっと笑ってみて」と言ったとき、片側だけ動かない場合は注意

A(Arm / 腕):片方の腕に力が入らない →「両腕を前に出して10秒保って」と言ったとき、片方が下がってくる場合は注意

S(Speech / 言葉):ろれつが回らない・言葉が出にくい →いつもと話し方が違う、言葉が出てこない、滑舌が急に悪くなった場合は注意

T(Time / 時間):気づいた時刻をすぐにメモして、119番へ →スマートフォンで時刻をメモ。この時刻が病院での治療判断に直結します

このFASTのうちひとつでも当てはまったら、「昨日から変だったな」は「今日の朝、119番」の合図です。

脳卒中の検査を受けているイメージ(MRIなど) FASTの1項目でも当てはまったとき、すでに脳の中では変化が始まっているかもしれない


起床時に確認したい5つの異変チェック

朝、家族の様子がいつもと少し違う気がしたとき、次の5つを確認してみてください。

1. 歯磨きのとき:いつもうまくできているのに、口の片側からこぼれる・うまく口が動かない

2. 着替えのとき:片方の袖が通せない・ボタンをうまくはめられない

3. 靴下を履くとき:足を上げられない・片方がうまくいかない

4. 箸を持つとき:いつもより不器用に見える・落とす・持ち方がおかしい

5. 返事をするとき:名前を呼んでもいつもより反応が遅い・声がいつもと違う

どれか1つでも「あれ?」と思ったら、FASTのチェックをして、迷ったら**#7119(救急安心センター)**へ相談してください。深夜・休日でも24時間つながります。


まとめ:「昨日から変だった」は今日の朝、119番の合図

  • 脳梗塞のt-PA治療には発症から4.5時間という時間制限がある
  • 「昨日から変だった」は発症時刻が不明になり、治療の選択肢を大きく狭める
  • 「夜には落ち着いた気がした」はTIA(一時的な脳虚血)の可能性がある
  • FASTの1項目でも当てはまったら、同日中に119番または#7119へ
  • 朝の5チェック(歯磨き・着替え・靴下・箸・返事)で早期発見できる

「様子を見よう」は、優しい判断です。でも、FASTサインが出たときだけは、もう一歩早く動いてほしい。

「昨日から変だった」——それは今日の朝、119番を押す理由になります。

病院の廊下でストレッチャーを運ぶ医療スタッフのイメージ 救急医療は「早く届ければ届けるほど」できることが増える。その最初のスイッチは、家族の一本の電話だ


脳卒中の後遺症への備えを、今から考えてみてください

脳卒中後の回復には、入院・リハビリを含めて長い時間がかかることがあります。

後遺症が残った場合、介護が必要になることも少なくありません。

公的保険でカバーしきれない費用に備えるため、医療保険・脳卒中特化型保険・介護保険を今のうちに確認しておくことをおすすめします。


参考文献・出典

この記事は、以下の公的情報をもとに作成しています。

医療情報の正確性について:本記事の情報は執筆時点(2026年7月)の公的情報に基づきますが、医療判断は必ず医師にご相談ください。記事内容の誤りを発見された場合は、お問い合わせよりお知らせください。


※プライバシー保護のため、実際の事案を元に個人が特定できない形に加工しています。


免責事項:この記事の情報は一般的な救急知識の情報提供を目的としており、医療行為・医療診断の代替となるものではありません。症状がある場合は必ず医療機関を受診してください。生命の危機を感じる症状は、すぐに119番に通報してください。

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