夏の午後、ある公共施設から119番が入った。

「おばあちゃんが……右手に力が入らなくて。言葉もちょっとおかしくて」

「いつからですか?」

少し間があった。

「……昨日の夕方頃から、何か変だなって言っていて。今日も続いているから、心配で」

昨日から。

その言葉を聞いた瞬間、私は頭の中でひとつの判断をした。

脳卒中の可能性がある——。

私は現役救命士で経験20年。この事案から、家族に知っておいてほしいことを書きます。

80代の高齢女性。穏やかな表情で座っている。 「何か変だな」——その直感を、もう少し早く信じてほしかった


現場に着いたとき、何が見えたか

現場は、ある公共施設の一室だった。

80代の女性が椅子に座っていた。意識はある。目を開けて、私の声にうなずく。名前も答えられる。

でも、話しかけると言葉がつっかえる。

「さ行」や「ら行」が特にうまく出ない。舌がうまく回っていない感じだ。

「手はどうですか?」と聞くと、「右手に力が入らない」と言う。

かたわらにいた家族が補足してくれた。

「昨日の夕方頃から、右手がおかしいって言っていたんです。夜には少し良くなった気がして、様子を見ていたんですが……今日になってもまだ変で」

私はすぐに声をかけた。

「来てくれてよかったですよ。今日、ちゃんと呼んでくれて、本当によかった」

これは本心だった。


現場で測った数値

接触直後に測定したバイタルを記録した。

現場バイタル(接触時)

項目 数値 評価
意識レベル(JCS) 0(清明) 正常
GCS(目・声・動き) 15点(最大値) 正常
呼吸 20回/分 正常範囲
62回/分 正常範囲
血圧 155/86mmHg やや高め
酸素飽和度(SpO2) 98% 正常
体温 36.3℃ 正常

右半身:脱力あり

見た目には「意識も酸素も問題なさそう」な数値だ。

でも、重要なのは数値ではなかった。

右半身の脱力と、呂律(ろれつ)の不良——この2点が、今この人に起きていることを物語っていた。

聴診器と血圧計が白いシーツの上に置かれている 数値は「見た目の安心」とは別のことを語っていた。重要なのはバイタルではなく、症状の中身だった


脳卒中を見つける「FAST(ファスト)」とは

脳卒中の症状を素早く見つけるための方法として、「FAST(ファスト)」という覚え方があります。

F(Face / 顔):顔の片側が下がる・ゆがむ

A(Arm / 腕):片方の腕に力が入らない・上がらない

S(Speech / 言葉):言葉がうまく出ない・滑舌がおかしい

T(Time / 時間):これらのサインに気づいたら、すぐ時刻をメモして119番へ

この80代の女性は、**A(右腕の脱力)S(呂律不良)**の2項目が当てはまっていた。

つまり、脳卒中の可能性を示す典型的なサインが、前日から出ていたことになります。


「前日から症状があったのに、なぜ翌日に?」という話

家族の誰もが悪意を持っていたわけではありません。

前日の夕方に症状が出た。でも、夜には少し楽になった気がした。だから「様子を見よう」と思った。

これは、多くの家庭で起きることです。

医学的に見ると、この「症状が一時的に改善する」というパターンは、**TIA(一過性脳虚血発作)**の特徴に当てはまることがあります。

TIAとは、脳への血流が一時的に途絶えることで、脳卒中と似た症状が出るものの、数分〜数時間で自然に回復する状態のことです。

ここが危険なところで——TIAは「治った」わけではありません。

研究によれば、TIAを経験した人の一部は、その後数日以内に**本格的な脳梗塞(脳への血流が完全に止まる状態)**を起こすリスクがあることが知られています。

「夜には良くなった気がした」という感覚は、体が発した警告を、体自身が一時的に引っ込めただけかもしれない。

だから、一度でもFASTサインが出たときは、回復した後でも医療機関に相談することが大切です。


脳卒中が「時間との勝負」と言われる理由

脳梗塞の場合、発症から治療までの時間が短ければ短いほど、助かる可能性が上がります。

脳の神経細胞は、血流が止まった状態が続くと徐々に傷んでいきます。

現在は、脳梗塞に対して「t-PA(静脈内血栓溶解療法)」や「機械的血栓回収療法(カテーテルで血栓を取り出す手術)」といった治療が、条件を満たせば受けられるようになっています。

ただし、これらの治療には発症からの時間制限があります。

時間が経てば経つほど、治療を受けられる選択肢が狭まっていきます。

「前日から変だった」という情報は、救急隊員や医師にとって、治療の判断に直結する重要な情報です。搬送先でもすぐに共有するようにしてください。


家族ができる「FASTチェック」の方法

「もしかして脳卒中?」と思ったとき、自宅でできる確認方法をご紹介します。

顔を確認する(F)

「ちょっと笑ってみてください」とお願いしてみてください。

両側が対称に笑えているか確認します。片側だけ動かない、または口角が下がっているなら注意が必要です。

両腕を確認する(A)

「両腕を前に出して、10秒そのまま保って」とお願いしてみてください。

片方の腕が下がってきたり、維持できなかったりする場合は、片側の脱力を疑います。

言葉を確認する(S)

いつもと同じ調子で話してもらい、言葉の出方を観察してください。

ろれつが回らない、言葉が出てこない、いつもと話し方が違う——いずれかがあれば、注意が必要です。

時刻を記録する(T)

異変に気づいた時刻をメモしてください。スマートフォンでもかまいません。

「何時頃から変だったか」という情報は、救急隊員が病院に伝える際に非常に重要です。そのまま119番に電話してください。

80代の女性と、そのそばに寄り添う家族の様子 「何か変だな」と思ったとき、一緒にいる人が確認してあげられる——それが家族の力だ


「様子を見よう」の前に確認してほしいこと

「すぐ受診するほどでもないかな」と思ったときこそ、FASTの3項目を確認してほしいのです。

顔・腕・言葉のどれかひとつでも当てはまるなら、その時点で医療機関への相談が必要です。

「救急車を呼ぶのが早すぎるかな」と思う気持ちはわかります。

でも脳卒中のサインが出たときは、時間が経つほど治療の選択肢が変わってきます。迷ったときは、かかりつけ医や救急安心センター(#7119)に電話して相談することもできます。

深夜・休日でも、119番に電話すれば救急指導員が対応してくれます。


搬送後の経過

この80代の女性は、救急車で専門病院へ搬送されました。

CTや血液検査などの精密検査の結果、脳卒中に関係する所見が確認され、その日のうちに入院となりました。

「昨日から変だったのに、すぐ呼ばなくてごめんなさい」

家族の方が、搬送先でそう言ったと後から聞きました。

私が伝えたいのは、責任の話ではありません。

「様子を見よう」という判断は、誰だってします。

でもこれからは、FASTサインを1つでも確認したら、もう一歩早く動けるかもしれない——この事案が、その気づきにつながってほしいと思います。

サイレンを鳴らして走る救急車 救急車が来るまでの時間を短くするのは、119番を押す家族の判断から始まる


まとめ:脳卒中は「FAST」で見つける

  • F(顔):片側が下がる・笑えない
  • A(腕):片方に力が入らない・上がらない
  • S(言葉):ろれつが回らない・言葉が出にくい
  • T(時間):気づいた時刻をすぐメモ→119番へ

一度症状が出て、少し良くなった感じがしても、医療機関への相談を先送りにしないでください。

脳卒中の症状は、一時的に改善するケースがあります。でも、それは体が発した警告がなくなったわけではありません。

「昨日から変だった」という事実は、とても大切な情報です。かかりつけ医や救急安心センター(#7119)に電話して、まず相談してみてください。

病院の救急処置室のイメージ 搬送先では、発症時刻の情報が治療の判断に使われる。「いつから変だったか」を覚えておいてほしい


「もしもの備え」についても、今から考えてみてください

脳卒中を含む血管疾患は、入院が長期に及ぶことがあります。

リハビリや療養期間の費用は、公的保険だけでカバーしきれないことも少なくありません。

家族として今できることのひとつは、万が一の入院・療養への備えを確認しておくことです。


参考文献・出典

この記事は、以下の公的情報をもとに作成しています。

医療情報の正確性について:本記事の情報は執筆時点(2026年7月)の公的情報に基づきますが、医療判断は必ず医師にご相談ください。記事内容の誤りを発見された場合は、お問い合わせよりお知らせください。


※プライバシー保護のため、実際の事案を元に個人が特定できる情報を一部改変しています。


免責事項:この記事の情報は一般的な救急知識の情報提供を目的としており、医療行為・医療診断の代替となるものではありません。症状がある場合は必ず医療機関を受診してください。生命の危機を感じる症状は、すぐに119番に通報してください。

画像出典:Unsplash(Unsplash License)