肝臓の持病がある家族が、このごろ人が変わったように怒りっぽい。昼間うとうとして、夜は起きている。今日は、その話をします。
この記事は、特定のどなたかの事案の話ではありません。典型的な形としては——肝臓が悪いと言われて何年も通院している高齢の家族が、ある時期から些細なことで声を荒らげるようになる。日付や曜日をときどき取り違える。昼間はソファでうとうとしていて、夜中に起き出して家の中を歩いている。家族は「年のせいだろう」「そろそろ認知症が始まったのかもしれない」と考えて、次の外来まで様子を見る——という形で起こります。
現役救命士として現場で見てきたからこそ言えるのですが、「ここ数日、様子がおかしい」で呼ばれたとき、家族が最初に口にするのはたいてい病名ではなく、「前はこんな人じゃなかった」という一言です。この一言は、検査の数字では代わりがききません。

昼と夜の境目が、いつのまにかずれていることがあります。(イメージ写真です)
急に怒りっぽくなり、昼夜が逆転した——傷病名は「肝性脳症」でした
肝性脳症(かんせいのうしょう)は、肝臓が原因で脳の働きが落ちる病気です。MSDマニュアル家庭版の冒頭の説明です。
肝性脳症は、重度の肝疾患(肝硬変または門脈圧亢進症)がある人において、正常なら肝臓で除去されるはずの有害物質が血液中に蓄積して脳に達することで、脳機能が低下する病気です。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
肝性脳症は、脳そのものの病気として始まるのではなく、肝臓の側から始まります。
誰に起こるかも書かれています。
肝性脳症は、長期にわたる(慢性の)肝疾患がある患者に発生します。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
今日いちばんお伝えしたいのは、その出はじめの形です。
発症初期には、論理的思考、人格や行動に微妙な変化が現れます。気分が変化したり、判断力が鈍ったりすることもあります。また正常な睡眠パターンが崩れます。抑うつ、不安、または怒りっぽくなったり、集中力の低下がみられたりすることもあります。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
並んでいるのは、人格、気分、判断力、睡眠、集中力です。痛いところも、熱も、出血も、この段落には出てきません。資料は症状の要約としても、錯乱、見当識障害、眠気が起こるとともに性格・行動・気分の変化がみられる、と書いています。

変わったことに最初に気づくのは、いつも家の中にいる人です。(イメージ写真です)
肝性脳症とは——肝臓で片づけられなかったものが、脳に届きます
仕組み自体は難しくありません。腸から吸収された物質は、ふつう肝臓を通るときに毒素が取り除かれます。毒素の多くはたんぱく質の分解産物で、アンモニアなどが例です。肝性脳症ではそれが取り除かれず、毒素が脳に達して脳の機能を損なう、と書かれています。
進んだときの様子も書かれています。
脳症のどの段階でも、息がカビ臭く甘ったるい匂いになることがあります。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
病気が進むにつれ、腕を伸ばすときに手をしっかりと支えきれずに、バタバタと羽ばたくような動きをするようになります(羽ばたき振戦)。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
羽ばたき振戦について、はっきりさせておきます。これは医師が診察で見るものです。家庭で腕を伸ばさせて試し、出た・出ないで自分の結論を出さないでください。この記事が扱っているのは「微妙な変化」の段階で、羽ばたき振戦はそれより進んだ段階の記述です。
資料は言葉を濁していません。
肝機能の低下が続くと、やがて意識を失い、昏睡状態に陥ります。昏睡に陥ると、治療を受けても、しばしば死に至ります。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
別の方向のことも書かれています。
肝性脳症は多くの場合、治療すれば治ります。実際、完全に回復することもあり、脳症の誘因が可逆的なものである場合は、特にこの傾向が高くなります。しかし、慢性肝疾患の患者は、将来脳症を発症しやすくなります。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
この2つは矛盾していません。行き着く先が重いことときっかけを取り除けば戻ることがあることが同じページに並びます。だからこそ早い段階で医師の目に入ることに意味があります。診断は医師が下します。

肝臓で片づけられなかったものが、脳に届きます。(イメージ写真です)
避けるには、そして受診の判断——誘因の側に、国の資料が名前を挙げています
この病気には手がかりがあります。きっかけ(誘因)が具体的に書かれていることです。
肝性脳症は、消化管での出血、感染症、処方薬を正しく服用しないこと、その他のストレスによって誘発されます。 (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
箇条書きには、感染症、処方薬を正しく服用しない、消化管での出血(例は食道静脈瘤)、脱水、電解質異常、そしてもう一つが並びます。
特定の薬物または薬剤の服用(特にアルコール、一部の鎮静薬、痛み止め[鎮痛薬]、利尿薬) (MSDマニュアル家庭版「肝性脳症」)
家庭の側から手が届くのは、処方どおりに薬をのむこと、脱水を避けること、お酒、消化管の出血を見逃さないことです。薬のことは必ず処方した医師に相談してください。
出血の側には国の資料があります。総務省消防庁のリーフレット『救急車を上手に使いましょう』(全8ページ)の「おとな」のページは、「おなか」の欄に「血を吐く」「便に血が混ざる または、真っ黒い便が出る」を、ためらわず救急車を呼んでほしい症状として挙げています。「意識の障害」の欄には「意識がない(返事がない)またはおかしい(もうろうとしている)」「ぐったりしている」が並びます。「高齢者」のページには、こう添えられています。
高齢者は自覚症状が出にくい場合もありますので注意しましょう。 (総務省消防庁「救急車を上手に使いましょう」)
肝性脳症という傷病名は、このリーフレットに一度も出てきません。それでも、きっかけになる出血と、結果として現れる意識の変化が、別々の欄に書いてあります。
同じ消防庁の全国版救急受診アプリ「Q助」も同じです。「肝性脳症」「脳症」「アンモニア」はデータ全体に1件もありません。ところが大人の症状一覧(43項目)の「意識がおかしい」に入ると、最初の画面の16項目にこうあります。
15.肝臓が悪いと言われていますか? 〔または〕 黄疸(皮膚や目の白い部分が黄色っぽくなること)が出ていますか? (総務省消防庁「全国版救急受診アプリ(Q助)」A003181)
国が、意識の話の中で肝臓を名指ししています。選ぶと結果は「いますぐ救急車を呼びましょう」でした。同じ画面には項目4「あばれたり、いつもと違う行動をしたりしていますか?」、項目13「大量に酒を飲んだばかりですか?」もあり、16項目はどれを選んでも結果は同じでした。

受診の予定を待たずに動く条件は、資料の側に書かれています。(イメージ写真です)
どれにも当てはまらない場合は次の画面へ進みます。9項目あり、項目8は「認知症がありますか?」、項目9は「いつもと違った様子ですか?いつものように受け答えができませんか?」です。どれかを選ぶとさらに次へ送られ、「高齢者(65歳以上)ですか?」か「歩くことができない状態ですか?」に当たれば、やはり「いますぐ救急車を呼びましょう」でした。
この入口で「引き続き、注意して様子をみてください」に行き着けるのは、9項目のどれにも当てはまらないと答えたときだけでした。肝臓の持病が分かっている時点で、Q助は様子見の道を用意していません。
なお、日本救急医療財団 心肺蘇生法委員会『救急蘇生法の指針2025(市民用)』の全69ページには、「肝」「脳症」「アンモニア」「昏睡」「錯乱」「黄疸」がいずれも0件でした。単純な検索でも、ルビで語が分断されている場合を許す検索でも0件です。市民向けの救命手当の手引きなので、不思議ではありません。



