その通報は、現場から遠く離れた場所からかかってきた。
通報者は、患者本人ではない。同居の家族でもない。電話で話していた、友人だった。
指令には、こう入っていた。「80代女性、独居。電話中に会話が困難となった。詳細不明」。
詳細不明。通報した人が、現場にいないのだ。
「もしもし」の返事が、遅れた
その朝、友人は決まった時間に電話をかけていた。何年も続けている習慣だという。最初の数分は、いつもどおりだった。
変わったのは、そのあとだ。
言葉の途中で、間が空くようになった。
「あの……ええと、あれ、あの……」
言葉が出てこない、というより、言葉を探している間が長い。もう一度呼びかけると、返事は返ってきた。ただし、少し遅れて。
そして——「ちょっと、変。立てない」。
そのあと、受話器の向こうで、何かが落ちる音がした。呼びかけても返事がない。
友人は、かけ直さなかった。その場で119番した。この判断が、この事案のすべてだったと私は思っている。
台所は、家の中でいちばん「立ったまま」の時間が長い場所だ。そこで足元が崩れると、何が起きるか
通報者が、現場にいない
あまり知られていないと思うが、通報者が現場にいない119番は、救急にとって難易度の高い出動になる。住所が確定しにくい(友人は家を知っていたが番地までは言えなかった)。本人に電話で確認できない。玄関が施錠されている可能性がある。中の様子が分からない。
この日は、通報者が「台所で料理をしていたはず」と伝えてくれていた。これは大きい。火の始末という問題が、最初から共有されていたからだ。
そして幸いなことに——玄関は施錠されていなかった。
姿が見えなくても、声だけで気づけることがある。この日の119番は、受話器の向こうから始まった
現場で確認した状態
到着したとき、その方は台所の床に座り込むような姿勢でいた。倒れて動けない、ではない。壁と流し台に体をあずけて、自分で起き上がれずにいた。コンロの火は、消えていた。
| 項目 | 数値・所見 |
|---|---|
| 意識(JCS) | 0(清明) |
| 会話 | 成立するが、返答に間があり、言葉が出てこないことがある |
| 顔の左右差 | 明らかでない |
| 両上肢の挙上 | 左右とも保持できる |
| 立位・歩行 | 保持できない。体が一方へ流れる |
| 血圧 | 高値 |
| 麻痺 | はっきりした片麻痺なし |
| 既往 | 血小板が少ない病気で通院中(本人申告) |
ここを、よく見てほしい。顔は下がっていない。両腕も上がる。
つまり——FASTの「F」と「A」は、陰性だった。
「顔と腕」の外側にある、脳卒中のサイン
脳卒中の合図として知られるFAST(Face 顔/Arm 手/Speech 言葉/Time 時刻)。日本脳卒中学会が監修する市民向け資料でも、発症時の合い言葉は「ACT FAST」と示されている。当ブログでもFASTのやり方を解説した記事を出しているし、家庭でまず覚えるべきものだと今も思っている。
ただ、この日当てはまっていたのは**「S(言葉)」だけだった。もし友人が目の前にいて「顔は曲がっていない、腕も上がる」とだけ確認していたら——「大丈夫そうだ」と判断してしまった可能性がある**。
だから同じ資料には、「顔・腕・言葉」に加えて覚えましょうとして、脳卒中の5大症状が併記されている。
| 脳卒中の5大症状(いずれも「突然」起こる) |
|---|
| ① 片方の手足・顔半分の麻痺・しびれ |
| ② ろれつが回らない・言葉が出ない・他人の言うことが理解できない |
| ③ 力はあるのに、立てない・歩けない・フラフラする |
| ④ 片方の目が見えない・物が二つに見える・視野の半分が欠ける |
| ⑤ 経験したことのない激しい頭痛 |
この日の方に当てはまっていたのは、②と、そして③だった。腕は上がる。握る力もある。それなのに、立っていられない。
もちろん、ふらつきの多くは脳以外が原因だ。日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会も「脳疾患によるめまいは比較的少数」とはっきり書いている。だが同じ学会は、小脳や脳幹はバランスを保つうえでとくに重要な働きをしており、この部位の出血や梗塞によりめまいが生じる、とも書く。
つまり「ふらつき」は、それだけで脳卒中を疑う理由にはならないが、脳卒中を否定する理由にもならない。
決め手は、症状の種類より**「突然、始まったかどうか」**だ。さっきまで普通に料理をしていた人が、数分のうちに立てなくなった。この「時間の切れ味」が、いちばん強いサインになる。
血小板が少ない、ということ
この方は、血小板が少ない病気で通院中だと自分で話してくれた。手帳も出してくれた。これは救急隊にとって重要な情報だ。
血小板は、血を固めて出血を止める役割を担う成分だ。これが少ないと血が止まりにくくなる。なお、血小板が減る病気はひとつではない。指定難病の免疫性血小板減少症(ITP)もそのひとつだが原因は他にもあり、「血小板が少ない」=ITPではない。
ここで、よくある誤解を1つ。**「血小板が少ない」と「血をサラサラにする薬を飲んでいる」は、別の話だ。**どちらも「出血しやすい方向」に働くが、原因も対応も違う。
そして、これは知っておく価値があると思う。脳梗塞で使う血栓を溶かす薬(t-PA)の適正治療指針(日本脳卒中学会)には——血液疾患の病歴がある患者で血小板数が10万/mm³以下の場合は「適応外(禁忌)」、治療開始後にその値と判明した場合は速やかに投与を中止する、と明記されている。
つまり、「血液の病気で通院している」という一言が、病院での治療の選び方に直接関わる。
血液の病気で通院している人は、「病名」と「直近の数値」が救急の現場で強い武器になる
だからこそ、病名・かかりつけ・直近の血液検査の結果・飲んでいる薬を、お薬手帳に挟んで一か所に置いておいてほしい。救急隊は、その紙をそのまま病院へ持っていく。本人が説明できない状態になったときに効いてくるのは、いつも紙だ。
台所で倒れる、ということ
台所は「立ったままの時間」が長く、しかも火・熱湯・刃物・硬い角が集まっている。足元が崩れれば、病気そのものに加えてやけど・切創・火災という二次被害が同時に起こりうる(家庭内の熱傷は夏のやけどの記事に書いた)。そして独居であれば、火を止められる人がその場に誰もいない。
**台所で「あれ、おかしい」と感じたら、まず火を消す。**移動しなくていい。それだけを先にやってほしい。
ひとり暮らしの家では、「いつからおかしかったか」を証言できる人がいない。その空白を埋めるのが、外からの連絡だ
見守りは、機器の話である前に「誰かが定期的に声を聞いている」という話だ

