夏の深夜、娘から電話があった。
「お母さん、ちゃんと眠れてる?」
軽い気持ちでかけた電話だった。でも、受話器から聞こえてきた声に、娘は違和感を覚えた。
「……うん。ちょっと……汗が、ひどくて」
声がかすれている。いつもははきはきと答えるのに、言葉が出てくるまでに間がある。
「なんか変だ」
そう感じて119番に電話した。それが、この夜の命綱になった。
現場で見たもの——意識は清明でも、体は悲鳴を上げていた
救急車で到着すると、90代の女性は自室のベッドに座っていた。
声をかけると目はしっかり開き、「ああ、来てくれたの」と答えた。
意識はJCS 0——清明(完全に覚醒した状態)だった。
しかし、「体に力が入らない」という訴えがあった。特に脚。立ち上がろうとしても、うまく踏ん張れない。「体がだるい」「口が渇く」という訴えも続いた。
バイタルサインを測定した。
| 項目 | 数値 | 評価 |
|---|---|---|
| 意識(JCS) | 0 | 清明(完全覚醒) |
| 血圧 | 102/64 mmHg | やや低め |
| 脈拍 | 104回/分 | 速い(頻脈) |
| SpO2(血中酸素) | 97% | 正常 |
| 体温 | 37.9℃ | 微熱 |
皮膚のツルゴール(弾力)を確認した。手の甲の皮膚をつまんで放すと、戻るまでに時間がかかる。これを「ツルゴール低下」という。体の水分が不足しているサインだ。
病歴を確認したところ、2型糖尿病があり、インスリン製剤を使用中とのことだった。
日本救急医学会の熱中症分類では**Ⅱ度(中等症)**に相当する状態だった。病院への搬送が必要な状況だ。
「エアコンは……昨日の夜から切ってたかな。もったいないから」
その言葉が、引き金のひとつだった。
一晩かけてゆっくりと脱水が進んでいた——その夜、誰も気づかなかった
なぜ深夜から早朝の熱中症が多いのか
真夏の熱中症というと、炎天下での作業や屋外スポーツを連想しやすい。
しかし実際の統計を見ると、高齢者の熱中症は「住宅内」での発生が最も多い。総務省消防庁の令和5年統計では、65歳以上の熱中症搬送者のうち、発生場所の最多は「住宅」だった。炎天下よりも、自宅の室内で倒れるケースが多いのだ。
では、なぜ夜中に熱中症が起きるのか。
理由1:就寝中の発汗を意識できない
人は眠っている間も汗をかく。特に夏は発汗量が増える。エアコンをかけていても、呼吸と皮膚からの蒸発だけで一晩に300〜400ml(コップ約2杯分)の水分が失われると言われている(厚生労働省資料より)。
本人は眠っているのでそれを意識できない。脱水が深夜に静かに進行する。
理由2:高齢者は喉の渇きを感じにくい
若い人なら「喉が渇いた」と感じれば水を飲む。ところが高齢になると、この口渇感が鈍くなる。脱水が進んでいても「喉は渇いていない」と感じてしまう。
「渇いたら飲む」では、間に合わない。
理由3:エアコンを切って眠る習慣
「寝ている間に冷えすぎると体に悪い」「電気代がもったいない」——こうした理由でエアコンを切って眠る高齢者は少なくない。
しかし夏の夜、室温は深夜から朝にかけても28〜30℃を超えることがある。部屋が暑ければ汗が出続け、脱水は急速に進む。
枕元の水一杯が、夜間の脱水を少し遅らせることがある
糖尿病があると、なぜ脱水リスクが高まるのか
今回の患者さんには糖尿病があった。
糖尿病と脱水は、意外なほど深くつながっている。
高血糖が「浸透圧利尿」を引き起こす
糖尿病の管理が不十分だと、血糖値が上がりやすい。血中の糖分が増えると、体は余分な糖を尿として排出しようとする。このとき、糖と一緒に水分も失われる。これを「浸透圧利尿」という。
つまり高血糖の状態では、普通の人より多くの水分が尿から失われる。体の中の水が、糖と一緒に出ていってしまうのだ。
夏の高血糖は気づきにくい
夏の暑さ・食欲不振・体調変化が重なると、血糖値のコントロールが乱れやすくなる。高齢者は「なんとなくだるい」「食欲がない」という訴えが多く、「熱中症なのか、高血糖の影響なのか」が判別しにくい。
両方が重なった場合(熱中症+高血糖脱水)は、脱水が急速に悪化し、命に関わることがある。
日本糖尿病学会も、夏季の熱中症対策として「糖尿病の方は特に意識的な水分補給が必要」と注意喚起している。
糖尿病がある家族は、夏の見守りをより強く意識してほしい。
糖尿病を持つ高齢者は、同じ暑さでも脱水が進みやすい。夏の薬の管理と水分補給は一体で考えてほしい
家族が電話で気付ける、異変の5つのサイン
今回、娘さんが「なんか変だ」と感じたのは「声がいつもとちがう」からだった。
電話越しでも、熱中症による脱水・体調変化は読み取れる。意識して聞いてほしい5つのサインを紹介する。
① 声がかすれている・しゃがれている
脱水が進むと口や喉の粘膜が乾燥し、声がかすれる。いつもより声が低い、力がない、しゃがれているなど「声の質の変化」に気を付けてほしい。今回の娘さんが最初に気づいたのも、まさにこれだった。
② 応答が遅い・言葉が出るまでに間がある
電話したとき、返事が返ってくるまでに間がある。「えっと……」と少し考えてから答える。これは意識の反応速度が落ちているサインのひとつだ。「眠そうだから」で済ませず、他のサインと合わせて確認してほしい。
③ 話が噛み合わない・同じことを繰り返す
「今日の朝ごはんは食べた?」と聞いても「あ、うん、昨日は……」とズレた答えが返ってくる。こうした「話の噛み合わなさ」は脱水による認知機能への影響を示すことがある。
④ 「トイレに何度も行った」という訴え
「さっきからトイレに何度も行って」という訴えがあったら要注意。糖尿病を持つ高齢者は、高血糖による浸透圧利尿で頻尿になることがある。水分を失っているのに、尿として体外に出続けているのだ。
⑤ 「汗が全然出ない」と言う
「暑いのに汗が出ない」は、重症熱中症(Ⅲ度)に近づいているサインのひとつだ。体温調節機能が限界を迎えているか、脱水で汗を作れなくなっている可能性がある。このサインが出たら、迷わず119番だ。
窓の外を見つめながら、娘は電話を握り直した——「なんか変だ」
寝室の熱中症を防ぐ5つの工夫
「離れて暮らす親に、今日からできることを。」
現場経験から、特に効果的な予防策を5つ挙げる。
① 就寝前にコップ1杯の水を飲む
就寝前の水分補給が、夜間脱水の予防になる。環境省は就寝前の水分摂取を推奨している。「喉が渇いていなくても飲む」がポイントだ。ただし、心臓や腎臓に持病がある場合はかかりつけ医に相談してほしい。
② エアコンは28℃以下で就寝中もつけておく
「寝ている間は涼しくなるから大丈夫」は誤解だ。室温が高ければ汗は出続ける。環境省は室温28℃以下を推奨している。タイマーよりも、朝まで設定を保つほうが安全だ。
③ 遮光カーテンを閉めて眠る
東向きの部屋では、早朝5〜7時に日差しが入り室温が急上昇する。就寝前にカーテンを閉めるだけで、朝の室温を数度抑えられることがある。小さな習慣が、寝室の熱環境を変える。
④ 枕元にペットボトルや水グラスを置く
夜中に目が覚めたとき、すぐ手が届く場所に水があれば飲める。「渇いていなくても一口」の習慣が、夜間脱水を防ぐ。
⑤ 朝一番にコップ1杯の水を飲む
夜間に失った水分を、まず補う。「まだ食欲がないから」「お茶にする」ではなく、まず水を一杯飲んでからにしてほしい。「朝一杯の水」を夏の習慣にしてほしい。
この夜、早めの通報と点滴が、女性の回復を助けた。予防があれば、搬送せずに済んだかもしれない
まとめ——夏の深夜、一本の電話が命を救う
今回の90代の女性は、病院で点滴を受けて数時間後に体力が回復した。
「娘が電話してくれなかったら、朝まで誰にも気づいてもらえなかった」
本人がそう言った。
夏の夜間の熱中症は、本人が「大丈夫」と感じたまま進行する。特に糖尿病がある場合、浸透圧利尿によって脱水が加速することがある。
家族にできるのは、電話を一本かけること——ただそれだけかもしれない。
でも「声がいつもと違う」「なんか変だ」と気づけるかどうかが、搬送の遅れを防ぐ。
夏の深夜の電話は、命の見守りになる。
総務省消防庁の令和5年データでは、65歳以上の熱中症搬送は夏季(5〜9月)だけで5万8,000人を超え、そのうち住宅内での発生が最も多かった。夜間は特に、異変に気づく人がいない。
今夜、親に電話を一本かけてみてください。
「もしものとき」の備えを
熱中症や糖尿病合併症で入院すると、1〜2週間以上の入院になることがあります。
高齢の親の入院は、本人の医療費だけでなく、家族が仕事を休んだり、退院後の介護サービスを手配したりと、経済的・時間的な負担が重なります。
万が一に備えた医療保険や見守りサービスについて、この機会に一度確認しておくことをすすめます。


