「息が……苦しい」
深夜2時を過ぎたころ、妻は夫の声で目が覚めた。
暗い寝室の中で、夫がベッドの上に起き上がっていた。
「横になれなくて……起き上がってると、少しだけ楽なんだ」
妻が119番を押したのは、そこから間もなくのことだった。
現場に着いたとき
到着したのは入電から約8分後だった。
居間のソファに、70代後半の男性が腰かけていた。
両手をひざに置いて、前かがみの姿勢で。肩で呼吸をしている——いわゆる「肩呼吸」だ。息を吸うたびに肩が上がる。それだけで、呼吸に大きな努力がいることが伝わってくる。
顔色は悪く、唇がうっすら紫がかっていた。
「今日の昼ごろから、なんとなく息苦しかったんです。横になったら急に苦しくなって……」
そう話してくれたのは妻だ。
「この人、慢性心不全でずっと通院してます。薬も飲んでて……でも先月あたりから足がすごくむくんでいて」
バイタルが示していたこと
| 項目 | 値 | 目安 |
|---|---|---|
| 意識 | 清明(JCS 0) | 正常 |
| 血圧 | 168/94 mmHg | 高め(目安は120/80未満) |
| 脈拍 | 102回/分 | やや速い |
| 体温 | 36.8℃ | 正常 |
| SpO2 | 84% | 低下(正常は95〜100%) |
| 呼吸数 | 28回/分 | 速い(正常は12〜20回/分) |
SpO2(エスピーオーツー)とは、血液の中にどれだけ酸素が含まれているかを示す数値です。
健康な状態では95〜100%を維持しています。84%というのは、臓器や脳への酸素供給が危うくなるレベルです。
聴診器を当てると、両肺の下のほうにバリバリという音が聞こえた。「ラ音」と呼ばれる、肺に水が溜まっているときに生じる音です。
両足首を触ると、指で押したら凹みが残るほど腫れていた。
これだけの情報が揃えば、仮説は一つに絞られます。
急性心不全。心臓のポンプ機能が低下し、肺に水が溜まっている。
急性心不全とは
心臓は、全身に血液を送り出すポンプとして働いています。
「心不全」とは、このポンプ機能が低下した状態のことです。
急性心不全(きゅうせいしんふぜん)とは、ポンプ機能が急に大きく低下したり、慢性心不全が急速に悪化したりして、肺や全身に血液がうっ滞(たまった)状態を指します。
特に肺のうっ血が起きると、肺の血管から水分が染み出して、肺胞(はいほう=肺の中の小さな空気の袋)の中に溜まります。これを「肺水腫(はいすいしゅ)」といいます。
肺胞に水が溜まると、酸素と二酸化炭素の交換がうまくできなくなります。だから呼吸が苦しくなる。
「横になれない」——その訴えが、救急を呼ぶべきサインだった
「起き上がると楽」の意味
今回の男性が示した「横になると苦しく、起き上がると少し楽になる」という状態を、医療では「起座呼吸(きざこきゅう)」といいます。
なぜこうなるのでしょうか。
横になると、足や下半身にたまっていた血液が重力の影響を受けずに心臓・肺へ一気に戻ります。心臓のポンプ機能が低下している状態では、この戻ってきた血液をうまく処理しきれず、肺にさらに血液がうっ滞します。その結果、呼吸がより苦しくなる。
起き上がると逆です。重力によって血液が下半身に移動し、肺の圧力が下がります。だから少し楽になる。
つまり**「横になると苦しい、起き上がると楽」という状態は、心臓が血液をうまく処理できていないサイン**なのです。
日本循環器学会の急性・慢性心不全診療ガイドラインでも、起座呼吸は心不全の典型的な症状として明記されています。
「夜中に布団から起き上がっている」——それを見かけたとき、「暑くて眠れないのかな」と思う前に、息苦しくないかを確認してください。
足のむくみが「前兆」だった
妻が「先月あたりから足がすごくむくんでいて」と言っていた。
これは重要な情報でした。
心不全では、心臓のポンプ機能が低下することで静脈の血流が滞ります。そうすると静脈の圧力が上がり、血管から水分が染み出して周辺の組織に溜まります。これが「浮腫(ふしゅ)=むくみ」です。
心不全によるむくみには、次のような特徴があります。
- 左右対称に出る(片足だけでなく両足)
- 足首・すねに出やすい
- 指で押すと凹みが残る(圧痕性浮腫)
- 夕方に悪化し、朝は少しマシになる(重力と体位の影響)
- 重症になると、足だけでなく腰や腹部まで広がる
今回の男性の場合、先月から両足のむくみが続いていた。これは心不全の悪化が、数週間前から始まっていたことを示しています。
「むくみが続いている」と気づいたとき、それをかかりつけ医に相談していれば、深夜の救急搬送を防げたかもしれない。
これは責めているわけではありません。ただ、この事案から学べる大切なことです。
むくみは、体の内側で何かが起きていることを示すサインだ
なぜ夜間に悪化するのか
急性心不全が夜間に悪化しやすい理由はいくつかあります。
横になることで肺うっ血が悪化すること(前述の起座呼吸のメカニズム)に加えて、夜間は自律神経の働きが変化し、血圧や心拍数が変動しやすくなります。
また、日中は活動しながら感じていた息苦しさを「疲れているから」と見過ごしてしまい、就寝後に急速に悪化するケースも少なくありません。
この男性の場合も、当日の昼ごろから何となく息苦しさがあったとのことでした。
「なんとなくしんどいな」と感じながらも「たいしたことないだろう」と思って就寝し、横になった途端に一気に苦しくなった——これは心不全の急性増悪でよく経験するパターンです。
「昼間から続く息苦しさ」も、夜間の急変を防ぐためのサインです。見逃さないでください。
「夜中に申し訳ない」という遠慮が、命取りになることがある
病院での処置は早ければ早いほど、回復が早い
毎朝の体重測定が、急変を防ぐ最初の一歩

